第4章  逆 転 & エピローグ



 二人はホテルの一室にいた。
――お車のままチェックイン――
 そんな看板に誘われて、街外れのこのホテルに辿り着いたのだった。
 陽子はベッドの上で、ちょうど二つの枕の中間にヒザを抱えて座っていた。淳は部屋に入るなり、倒れこむようにジュウタンに仰向けになった。そのまま二人はしばらく目を閉じていた。
 部屋は都会のそれと比べると かなり殺風景な作りだった。

――どうしてこういうホテルのバスルームはガラス張りなんだろう・・・・・・。
 淳は陽子にシャワーをすすめられずにいた。

血痕があちらこちらに残り、まるで戦場と化したビルの工場現場では、小雨になった中で男たちが忙しく動き回っていた。
 だれもが、地味なスーツ姿だったが、目に見えない殺気を放っていた。
「分かっています。命に替えても取り戻します。」
 携帯電話の向こうの声はかなり大きく苛立っていた。男は電話を切ると今度はトランシーバーでビルの中の男と連絡を取っていた。
「まずいことになった。とにかく男も女も生かしちゃおけねえ」
 男は数人の男たちを呼び、そのまま二台の車に乗り分けて、明るくなった街の中に滑り出して行った。

「倉さんと出会ったのは俺が16の時だった。イキがっていたんだあの頃、毎日が喧嘩だった。孤児院で育って15の時に仕事についた。印刷屋でネ、小さな・・・ 毎日毎日、一生懸命インクまみれになって働いた。ある日そこで金が盗まれた。俺は必死に貯めた金を銀行に預けずに、部屋の中に持っていた。それが見つかって・・・・・・、そしたら もう犯人さ」
 淳が自分のことを話し始めてから、陽子はずっと淳を見つめていた。
「それからは、お決まりの転落人生ってやつ。その頃なんだ、倉さんに会ったのは」
 淳が起き上がって陽子を見た。

「それより淳、痛いだろうけどシャワー浴びてきて、簡単にしか出来ないけど傷の手当てしなくちゃ、何もないけど」
 陽子はそう言って淳の話しをさえぎった。
「陽子から浴びれば」
「私は後でいい。準備しておくから」
 陽子の瞳がきらめいていた。ベットの上の陽子は化粧も落ち、血と泥で汚れきっていたが、淳にはこの上なく魅力的だった。ヒザを抱いていた手をといて陽子は立ち上がりながら、
「早く」
 もう一度 淳をうながした。

「わかった。ちょっと我慢して、身体洗ってくるよ」
 淳は右足を突っ張ったまま、ゆっくりと立ち上がった。バスルームに移った淳は服を着たまま、ガラス張りの向こうから陽子に手を振った。
 それを見てクスッと笑った陽子に照れたような微笑を返し、中からカーテンを引いた。
 淳はゆっくりと着ているものを脱いでいった。身体を少しでも動かすたびに、傷と痛めつけられた筋肉が引きつるような痛みを訴えてくる。
 右足太股の傷は血でジーパンに張りつき、少しでも動かすと痛みが走る。それを唇をかみ締めて一気に下ろす。
 
バスタブにお湯を張りながら、頭から熱いシャワーを浴びた。身体がしびれる気がした。淳の傷ついた筋肉に熱いものが走った。
 急に胃から酸っぱいものがグッと込み上げてくる。
 さっきの男のペニスの味が舌先に蘇る。淳は黄水を吐いた。何度も何度も吐いた。
 歯に染みるような冷水でうがいをすると、やっとすっきりする。

「生き返るな、なあ淳」
 壁に貼られた鏡に映った等身大の自分に向かって話しかけた。胸には無数の傷が交差していた。熱い湯が傷口を騒がせていた。



 何度も何度も選手控え室で浴びたシャワーの音が甦ってくる。初めて試合に勝った時、身体中が震えていた。あっという間に新人王になり、時代をになうホープと呼ばれた。
 順調に階段をのぼり、日本チャンプへ、そして初めての世界戦。南米に渡り、敵地で挑戦した。ホームタウンデシジョンで僅差の判定に涙した。

 あの夜の水量の少ない水のシャワーを思い出す。
 再起の試合では、KO勝ちしてまた夢を迫った。熱い熱いシャワーでノドを鳴らした。そして二度目の世界戦、逆転のTKOで夢を現実にした。
 いつも倉さんと一緒だった。

 怒った顔、悩んだ顔、悲しい顔、優しい顔、笑った顔、喜んだ顔、いろんな倉さんが浮かんでは消えた。
「ごめんな、倉さん、でも、俺・・・やっぱり恐いんだよ」
 淳はまた自分にそう語りかけた。

 試合後、シャワーを浴びることが出来なかったのは、統一世界タイトル戦が始めてだった。
 目を覚ますと真っ白な部屋の中にいた。病院だった。三日も眠り続けたという。
 滅多打ちにされた世界チャンピオンのサラテとのファイトは、淳に身体の傷より心に深い傷痕を残していた。シャワーが浴びられるようになったのは試合後、一週間を過ぎてからだった。

「ボクシングが無性に恐くなってしまって、だから逃げちまったんだよな」
 淳はまた自分にそう語りかけた。鏡の中の淳に、今、逃げ場はなかった。
 身体を少しひねっただけなのに、肩に激痛が走った。右足の傷口からは、熱いシャワーで血行がよくなったせいだろうか、また血が流れ出している。

 リングにいた自分自身の姿から、今夜、このほんの数時間の出来事が、フラッシュバックのように脳裏をかすめていく。
 その屈辱と恐怖が再び淳に迫って来ていた。だが、人殺しの瞬間の自分の姿が中でも一番淳を苦しめていた。忘れようと、いきなりシャワーを冷水に変え、それを頭からずっと浴び続けた。

 バスローブを羽織って淳が外に出てみると、陽子は傷の手当てをするために、シーツを縦に裂いて包帯を作ったり、なにやら色々用意していた。救急箱もあった。

「さあ、遅くなったけど傷の手当てをしなくちゃ」
「ああ、でももう大丈夫だ。運がいいことに深傷の箇所はどこにもないようだから」
 そう答えながら淳はソファに腰をおろした。

「どうしたんだ、薬」
 淳は傷だらけの上半身を陽子に手当てしてもらいながら聞いた。
「フロントに電話して頼んだの」
「大丈夫か、そんなことして?」
 この種のホテルは、裏世界に通じていることが多い。淳は、それを心配していた。

「大丈夫よ、お風呂で滑って怪我したって嘘ついたから」
 顔だけは洗って、やはりバスローブを着ていた陽子は、いたずらっぽく笑いながらつけ加えた。
「きっと何も不審に思わなかったはずョ」
「もう警察に連絡しておこうか?」

 少し不安のよぎった淳の言葉に、
「取調べは、きっとすごく長くなるよ。淳の判断に任せるけど、私は少しだけ休みたいな」
 淳は煙草に一本火をつけた。黙ってそれを吸いながら、天井の隅のほうへ、眼を細めた視線を投げていた。湯子は淳の傷口にシーツで作った包帯を巻いていた。

「ありがとう。足は自分でやるから陽子はシャワー浴びてきな。それで少し休むといい。多分、明日は長い一日になりそうだから」
 それが淳の返事だった。陽子はゆっくりとうなずいて、バスルームに向かった。
 シャワーの音がしはじめた。

 カーテン越しに陽子の陰が映っていた。淳は右足の傷の手当てを自分でしながら、その影を見ていた。
 しゃがみ込んだ陽子は中で汚れた服を洗っている様子だった。
「服が乾くまで休むか」
 淳は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 熱いシャワーを浴びながら、陽子は何があっても闘い抜こうと決意していた。その決意が熱い涙となってシャワーと一緒に流れていた。この数時間の悪夢がまた甦ってきた。陽子はシャワーを止めずに、そのままバスタブに身を沈めた。顔までつけて思いっきり泣き続けた。

――理沙ちゃん・・・。
 泣きながら、自分が助かるためだけで一杯だった心に、大黒の娘のことが思い浮かんできた。
――ごめんね。理沙ちゃん、私のために・・・。

 陽子は、自分と大黒の話しを立ち聞きしたとはいえ、父を撃とうとしていた自分に、誤りながら抱きついてきてくれた理沙の気持ちを思うと、いたたまれなくなってくる。
 バスルームから出て淳を見たとき、思わず陽子は大声を出して驚いた。

「どうしたの?!」
「うん、久し振りにヒゲそってみた。イイ男になっただろ」
 淳が長く伸びた不精ヒゲを綺麗にそって、髪もきちんと整えていた。

「服、洗っておいたよ」
 そう言って、陽子は洗濯物を部屋中に干し始めた。
「ありがとう」
 バスローブの隙間から陽子の白い胸が見え隠れする。淳はそれを見ていた。陽子は淳の視線を感じて胸を押さえた。

「・・・・・・」
 陽子は淳を見つめた。
「そんな男じゃないね」
 陽子は淳をまばたきもせず見つめながら、そう言った。
「ああ、そんな男にゃなれないね」
 なんのてらいもなく、淳はそう答えた。

 しばらく淳を見つめていた陽子は、ゆっくりとうなずきながら呟いた。
「そうか、やっと思い出したわ」
「何を?」
「あなた、吉川淳って言ったわよね。プロボクサーでしょ、それも世界チャンピオンじゃない?」

 淳は少し口をとがらせえ、黙っている。その顔が陽子の問いを肯定していた。
「ヒゲそってからわかったのかな、強いはずよね」
「強くない 負けたんだから」
「行方不明だったんでしょ?」
「・・・・・・」
「何してたの?」
「・・・・・・」
 
 その後は何を聞いても淳は答えなかった。
「ごめん」
 陽子はそう言った後、もう何も聞かなかった。

 ぼんやりとした灯かりの中で、大きなベッドのほうで陽子はヒザを抱えて座った。対角のところに置いてあるソファん角で淳はじっと背中をもたれかけさせていた。
「恐くなったんだ。ボクシングが」
 陽子を見ようともせず、淳がひとり言のようにポツンと洩らした。

「・・・・・・」
 陽子は黙ったまま、首だけを淳のほうへ向けた。
「滅多打ち、まるでサンドバックみたいだった」
 陽子はじっと淳を見ていた。淳は、相変わらす陽子を見ないで別の方向に視線を向けていた。

「恐くて恐くて、だから逃げ出した。俺のことを誰も知らない場所に行きたかった。気がついたら、人相も変わってただのプータローになっていた。それでよかったんだ」
 陽子は自分の長い髪を指先で目の前に持ってきながら、なにげなさそうな態度で淳に向かって聞いた。

「貴方のことを心配してくれる人はいないの?」
「・・・・・・」
 淳は考え込むように押し黙ってしまった。ゆっくりと立ち上がると外の見えない窓に近づいた。そしてそれを少し押し開けてみた。
 外はもう明るくなっていた。一晩中、激しく降り続いた雨はもうすっかり疲れてしまったように小雨に変わっていた。

「倉さん、倉さんがいる。恐くて逃げたけど、戻れないのは理由なんかないんだ。理由もなくこうしていて、理由もなく戻れない。ただもう誰も傷つけたくないし、苦しめたくない。俺のことで・・・」
 ベットの時計は午前7時40分になっていた。

「その倉さんっていう人、きっと淳のこと心配しているよ」
 陽子のその言葉を背中で聞きながら、淳は外の電線にとまっているスズメの姿を見ていた。

――理由なんか本当にないんだ・・・。
 そう心の中で呼びながら、淳はまったく関係ないことを口にしていた。
「そろそろ晴れるよ」



 どうしようもない街のチンピラだった。
 ただの不良だった。
 16歳の時だった。
 淳はその頃、我流で覚えた空手で、その街では一度もケンカで負けたことがなかった。
 いつも何かに飢えていた。ケンカをして、相手を殴り飛ばし、蹴り倒しても、残るのは不満だけだった。誰にも心を許さず、なにごとも自分ひとりで解決していた。

 金もなかった。必要となったらチンピラたちから巻き上げるだけのことだった。
 その日、たまたま街角でバイクのエンジン音をけたたましく響かせていた四人の高校生がいた。淳はその四人に近づいて行った。
「金が必要なんだ」
 淳はその中の一人に言った。
「なにい!なんだと、この野郎!」
 
 淳よりかなり身体の大きなひとりがそう言って、淳ににじり寄ってくる。
 顔色の悪い、痩せた もうひとりの高校生がぺッとタンを吐きかけた。頬にかかったそれを左手で拭うと、淳はニヤリと笑って、その左手をバックハンドで大男の鼻っ面に叩き込む。
 ひるむところを、前蹴り、回し蹴りで、あっという間に倒していた。仲間がやられるのを見て、残りの三人が一斉に飛び掛ってきた。

 我流とは思えない淳のスッテップだった。誰一人まともに淳に触れることさえ出来ないうちに、正拳、手刀、そして蹴りをくらい道路にうずくまっていた。
「金が必要なんだ」
 淳はもう一度言った。
「わ、わかった・・・。出すよ、出すからもう勘弁してくれ!」
 四人はアスファルトの上に金を投げた。
「これで全部か」
「そうです そうです」
 淳はそれを拾い上げると四人に背中を向けて歩き出した。

 並んでいた四人のバイクキーを抜き、一台を除いて投げ棄てた。
「これ借りるよ。どっかに置いてとくから、明日探して・・・あっ もちろんこのことは誰にも言わない方がいいと思うよ」
 淳はエンジンをかけて走り去った。

 倉石は車の中から一部始終を偶然見ていた。
「久し振りに身震いするような奴だな、あのステップなら世界がとれるかもしれない。神様、この出会いに感謝しますよ」
 倉石はそう言ってアクセルを踏んだ。
 蛇行しながら、猛スピードで夜のの街を引き裂いていく淳のバイクを一度は完全に見失った倉石だったが、淳の乗ったバイクを忘れてはいなかった。

 街外れのバーの店先で乗り捨てられていたバイクを見つけた。倉石はそこに自分の車を滑り込ませた。店の中に入ると中は男たちでむせかえっていた。
 ショートバーだった。客はあまり柄の良くない男たちばかりだった。その中を縫うようにミニスカートの女たちが客に頼まれた飲み物を持って、今夜の税金の掛からない稼ぎのために愛想笑いを振りまいていた。

 もちろん客として、カモをくわえこもうと相手を探しに来ている女たちの姿も少なくなかった。
 淳はカウンターの外れに座り、ひとりで飲んでいた。店の中には酒の匂いと男たちと女たちの体臭、そして店内を包み込むような煙草の煙、うるさすぎる音楽とみだらな会話などがうずまいていた。

「こんなところで生きる道を探させるには、あまりに惜しい男だな」
 倉石はそう言いながら、中でも特別柄の悪そうな男たちに、いくらかの金を渡しながら何かを頼んだ。
 男たちはそれを受け取ると、淳のいるカウンターに近づいた。身体はそれほど大きくないが、いかにもケンカ慣れをしている身のこなしの三人組だった。

 あっという間に殴り合いが始まった。淳とその三人を取り巻いて、大きな輪が出来た。
 倉石の目に映った淳の動きは、輝くばかりの可能性を秘めていた。それほどのスピードとステップだった。
「いいそ いいぞ!」
 倉石がそう叫んだ時、三人の男は床の上で動かなくなった。だがその後、計算外のことが起きた。弱ったことに腕に覚えのある男が、本能的に闘争心をかきたてられたのか、次から次へと淳に挑んでいった。

 10人近くいたんだろう。大乱闘になってしまった。中のひとりの右手にキラッと光るものが見えた。
――いかん!光り物(ナイフ)を出しやがった!
 舌打ちした倉石も乱闘の中に飛び込んだ。

 真っ先にナイフを持った男をテンプルへの一撃で倒し、次々に男たちを床へはわせる。倉石の加入で敵の数がいきなり減ったのを見て、淳は倉石に向って言った。
「ありがとよっ!」
「勘違いするな、小僧」

 ほんの数分で、立っているのは淳と倉石だけになった。乱闘を取り巻いて見ているだけだった男たちと女たちは、声を失っていた。知らないうちに音楽も止んでいて、店の中は嘘のように静まり返った。
「来なッ」
 倉石は淳に向かって構えた。淳は自信ありげに、右手の親指と人差し指で自分の鼻をサッとこすって倉石に殴りかかった。

 淳の中で、3発までは記憶にあった。チン、ボディ、そしてもう一度チン・・・。
 目を覚ますと港の岸壁でで寝かされていた。倉石は淳に背中を向けて海を眺めながら缶ビールを飲んでいた。
 淳はゆっくりと身を起こすと、片ヒザになって拳を握り殴りかかろうとした。
「止めとけ」
 倉石は振り返りもせず、淳に向かって言った。淳の身体はピタッと止まって動かなくなった。倉石は缶ビールを差し出し、隣へ来るように淳を促した。

 仕方なく淳は倉石の横に座った。
「あんた、オヤジのくせに強えなぁ」
「プロだったからな」
「ヤクザ?」
「違うよ、ボクシングだよ」
 淳は缶のフタを開けて、グッと一口流し込んだ。
 それから ふたりは夜明けまで語り明かした。

 淳は嬉しかった。自分の話しをこんなにも一生懸命聞いてくれる人がいる。今まで誰ひとり、こんな人間はいなかった。
 特に淳が生きることを捨て始めてからは、白い目で見られることしかなかった。夜が明ける頃には、淳は倉石の隣で笑うことまで思い出していた。

「なあ淳よ、そんな生活はもう止めて、俺とボクシングをしてみないか」
「倉石さん、俺でも出来るかなぁ」
 それは網膜剥離で世界を獲れなかったという倉石に対する、淳のYESという返事だった。淳は倉石の言葉を待った。
「お前の気持ち次第だ。ただお前のスピードとステップは、今でも十分世界レベルにある。お前にはそれほどの素質と才能がある」

 淳は隣で、何本目かのタバコを取り出した。タバコを真横にくわえて四分の三回転させてライターで火を付けた。大きく息をはいた。
「もし俺と一緒に来るなら、それを吸い終わったらタバコとライターをそのまま海に捨ててくれ、そいつはボクシングをするには無用だからな」
 倉石はそう言って、真っ直ぐ海を見ていた。

 淳はゆっくりとタバコを吸い続けた。最後のフィルターのところまで吸い続けた。淳はポケットから残りのタバコとライターを取り出して倉石の視線の先にそれを投げ捨てた。
「倉石さん、次は俺、何をすればいい?」
 倉石の家での住み込み生活はその日から始まった。

 淳の力は二年で中央の知るところとなった。東日本新人王戦一ラウンド18秒KO勝ちという 華々しいデビューはマスコミからも注目された。多くの名の知れたオーナーが淳を、世界戦をエサに自分のジムに引き入れようとした。
 だがそれを拒み続けた倉石と淳は、満足なマッチメイクもしてもらえなかった。初めて世界戦が実現したのは、出会ってから8年が過ぎてからだった。

 無名のジムが、やっと一歩づつ はいずるようにして実力で掴んだ夢だった。倉石と淳は二人の夢を実現した。
 だが本当の夢の実現はサラテに勝手からのことだった。
 その試合に勝って、初めて倉石が興行権を握ることが出来る。それはあらゆる意味で、倉石と淳が望むところだった。



「滅多打ちだった。ボロ負けだった。恐怖だけが残った・・・。俺と倉さんの夢だったのに・・・」
 淳は陽子を見ていた。
「滅多打ち、まるでサンドバック・・・退院した後、ジムに行った・・・。リングの匂い、グラブの皮の匂い、息がつまる・・・だから・・・」
 淳は涙が流れるのがわかった。それを拭おうとはしなかった。
 陽子は枕を抱えていた。瞳はどこか遠く、ただ一点を見ていた。
 淳はソファに頭をもたせかけて天井を見上げた。薄明かりのその部屋で、陽子の姿はベットの角でシルエットになっていた。

「私の父さんは、街で一番頼りにされている人だったの。優しくて、弱い人たちの味方で、いつも街全体で、みんなのことを考えていたわ。色んな人たちが父さんのところへ、困ったことを相談に来ていた。父さんも母さんも、私に精一杯の愛情を注いでくれたの。でもその父さんの財産と会社と信頼を、ひとりの男が奪ったのよ。父さんはその男のことを一番信頼してとても可愛がっていたの。ところが初めから計画的にその男は父さんをだましたの。それがファイルの男よ」

 陽子が、初めて自分のことを話し始めた。
 陽子は遠くを見つめたまま、時折フッと笑ったり深く溜息をついたりしながら、子供の頃の話しをした。
 陽子は父母の豊かな愛情に包まれて子供時代を生きていた。その幸福な生活は、大黒の裏切りによって全てを破戒されてしまったと言った。

「大黒は父さんの会社を、その後計画的に倒産させたわ。母さんは父さんの自殺した後、そのショックと残った莫大な借金から病気がちになった・・・。もう何年も会っていないけど、田舎の病院で寝たきりの療養生活をしているの」
 母の話しをする陽子は急に苦しそうな顔をした。

「母さんは本当に優しい人だった。いつだって、誰にだって、分け隔てなく接することの出来る人だった。そんな母さんを、大黒はあんなひどい生活に突き落としたの。それまでの恩をみんな裏切って・・・。私は子供だったから何にも分らなかった。そしてその後・・・母さんが入院してしまってから、ずっと親戚のところを転々として暮らしたの。でもどこも私に冷たかった。それはきっと私には借金以外何もなかったからよ。だって父さんが生きている頃は尾っぽを振っていた人たちだったのに・・・」

 陽子は立ち上がって淳のところまで歩いて来た。テーブルを挟んで淳の前にぺタリと腰を下した。
「タバコをちょうだい」
 陽子はテーブルの上のありふれた銘柄のサービスタバコには手をつけずに、淳のタバコを欲しがった。
 陽子は火を付けると一度だけ軽く吸い込んで、灰皿にそれを置いた。

 淳は陽子にタバコを渡した後、腕を組んで黙って陽子を見つめていた。
 もう涙は乾いていた。自分は孤児院で育ったから親の愛情を知らない。だから それを与えられなかったことを辛いとは思わなかった。
 もちろん羨ましいと思ったことはあったが、陽子のように それまで溢れるほどの愛情を受けていた者が、突然肉親を奪われた時、どれほどのショックを受けるのだろう。そう思って、ただ陽子の動きを見つめていた。

「ある日、私は子供の頃父さんが砂場で泣いていたこと、自殺したこと、母さんが泣き叫んで言ったこと、大黒が私の肩を抱いて言ったこと、そんなことみんなが蘇ってくるような記事を新聞で見かけたの。そう、私が高校二年生だったころかな。そこには地元の名士として奴の写真とその成功の逸話しが紹介されていた。一番最初に就職した先に父さんの会社の名があったの。それで子供の頃の記憶が蘇ってきたのね。母さんは、もう何年も前から私が誰だかもわからない状態だったし、親戚も世間の目があるから、一応高校には行かせてくれたけど、毎日が苦しい日々の連続・・・。そんな生活に反発があったのかな、私はすぐに自分の疑問を確かめるために行動し始めたわ。そして調べれば調べるほど、大黒のやったことが、父さんに対する裏切りだと実感したの。当時、父さんの死を警察も他殺の疑いで調べていた。その調査の対象は大黒だったってあとで聞いたわ」

 陽子は灰皿のタバコをもう一度手に持って口に運んだ。淳の目を陽子が挑むように見つめてくる。淳は視線をそらさなかった。
 嫌な思い出を振り切るように一つ大きな溜息を付くと、陽子の影が壁の上で大きく動いた。立ち上がって冷蔵庫に向かった。ビールを二本持って戻って来た。ひとつを淳に渡してベッドの端に足を真っ直ぐに投げだして座った。プシュと、缶を開ける音が部屋中に響いた。淳も開けた。

「何はともあれ、無事に生きていることに乾杯!」
 陽子が言った。淳を見て笑顔を浮かべた。
「そういうことだなっ、お互い生きてるもんな」
 淳も缶ビールを陽子のほうへ差し出だしてから、タバコに火をつけ、話しの先を促した。

「それで陽子はどうしたんだ」
「高校をやめたわ。その頃、地元の名士になった大黒は東京に住んでいたから」
 陽子はビールを飲みながら答えた。
「東京に行ったのか」
「うん」
「それで会ったのか」

「会わない。東京に行ってすぐ、住み込みで水商売したの。もちろん年もごまかして、ただお金を作るためだけに働いたわ。人並みに恋愛もして、その男性のために忘れようとおもったこともあった・・・。だけど、どうしても大黒のことが頭から離れることは無かったの」 
 20歳を超えたばかりで、特別な能力も身寄りもない女が生きていくには水商売の道を選ぶしかなかった。
 陽子が水商売を選んだのは、もうひとつ理由があった。

「なんだい、その理由って」
「ねぇ、淳。若い女が、それなりの社会的地位にある男と知り合えるチャンスのある場所ってどこだと思う?」
「・・・そうか、水商売ってのは、結局のところ男と女だからな」
「そうよ、どんな大企業のオーナーでも、どんな有力政治家でも、結局のところは男なのよ」

 身体だけを求めてくる男には慣れていた。
 身体だけ与えることもにも慣れていた。
 淳にはそこまでは言わなかったが、陽子はホステスという職業を最大限利用して、大黒重俊に関する情報、それもマスコミにまず出ることの無い裏情報を集めていたと、遠回しな言い方でそれを伝えた。

「じゃ、ホステスをしていた頃は、ずっと大黒のことばかり考えていたんだ」
「正確には、大黒にどう復讐しようか、ということばかりよ」
「そんなに怨んでいるのか?」
「怨んでいる?当たり前でしょ、大黒は私の家族を滅茶苦茶にしたのよ!何の罪もない父さんを自殺にみせかけて殺し、母さんを精神的に追いつめて廃人同様にしたのよ!許せると思うの」

 陽子の声が高くなる。自分の言葉に感情をたかぶらせて涙ぐんでいた。
「ごめん・・・。俺、家族って どんなのかしらないから・・・、肉親の愛情ってよくわからないから・・・。ごめんな、陽子」
 少しの沈黙のあと、淳がポソリと謝った。
 陽子にとって、淳の言葉ひとこと ひとこと、胸につき刺さる。

――私は子供時代だけでも、幸福なことに両親の愛情を溢れんばかりに生きていたんだ・・・。
――両親の愛情はあって当たり前だと思っていたけど、それすら知らない人もいる。淳がそのひとりじゃないか・・・。

 そう考えると、陽子は立ち上がり、いきなり淳に抱きついていった。
 何も言わず、淳の唇を奪った。
 缶ビールが倒れて、少し残っていたビールがベットを揺らすのもかまわず、陽子は、
「ごめんね、淳、ごめんね」
 と、うわ言のように呟きながら、淳を抱きしめる。

 陽子の急変した態度に少し驚きながら、淳は黙って、そっと背中を撫で続け、落ち着くのを待っていた。
 やがて、陽子がまた、これまでのことを話しはじめた。
「大黒はね、たったひとつ弱点があることを突き止めるまで、一年・・・、ううん、もっとかかったわ」
「弱点?何、それ」
「娘よ」
「娘?大黒の娘ってこと?」
「そう。冷酷な男だけど、娘のこととなると目の中に入れても痛くないって、ある財団法人の専務理事から聞きだしたわ」
「ふうん、で、陽子はどうしたの?」

「向こうは名門S女子大のお嬢様、私はいくら銀座の一流クラブとはいえホステス。普通じゃ知り合いになれっこないでしょ」
「そんなものなのかな。俺にはまるでわからない世界だ」
「わからなくっていいの。ううん、わからない方がいいのかな。嫌な世界よ」

 陽子にとって、夜の世界はいくら慣れたとはいえ「嫌な世界」だった。しかし、その嫌な世界にいたおかげで、大黒の弱点をつきとめたことも、また事実だった。
「大黒の娘―理沙ちゃんっていうんだけどね、彼女スポーツクラブに通ってるって、何かのきっかけで聞いわ」
《何かのきっかけ》ではない。陽子があたりさわりのない話しをしながら、その事務理事から理沙のことを聞きだすまで、数回、ホテルへ付き合わなければならなかった。

 そんなことまで淳には言えず、陽子はあいまいな言い方で誤魔化していた。
 陽子は理沙とプールサイドで知り合い、たちまち親しくなった。海千山千の男たちと対等にわたりあってきた陽子にとって、理沙のような「お嬢様」を手玉にとるぐらい、朝飯前だった。

 たったひとつの計算違いがあるとするなら、伸び伸びと育ち、他人を疑うことを知らない理沙の天衣無縫さに、陽子も魅きつけられたことだろう。
「悩んだろ?理沙ちゃんのことでは」
「うん・・・」
「親友になったんだからな」
「まさか、そんなことになるなんて、夢にも思わなかったわ。大黒に近づくための手段としか考えていなかったもの」

「それでも陽子は大黒が許せなかったんだ」
「・・・うん、悩んだけど、やっぱりダメだった・・・。許せなかったの・・・」
 苦汁に満ちた陽子の表情を見て、淳はわざと話題を理沙から変えた。
「それでも復讐した訳だ。でも合法的に会社を乗っ取ったなら、それは陽子の父さんが負けただけということだろ」
「合法的ならね・・・」
 陽子の顔は表情がなくなったまま、深く沈んだ。

「私、整形手術を受けたの。大黒が見ても誰だか分らない様に名前も幸崎から川奈へ変えたわ。別に川奈という名前に理由はないけど」
「お母さんはどうしてるんだよ」
 淳はなぜか急に気になって聞いてみた。

「ずっと仕送りだけは続けてる。居場所は知らせていないけど、整形した後、二、三度病院を偽名で訪ねたことはある・・・母さん、もう私のことも覚えていないし、自分だって分らなくなってるから」
 陽子の瞳から涙が溢れ、嗚咽で後は何も話せない。しばらく泣いてからは、静寂が二人を包んだ。
 時間の針はもうすぐ午前9時になろうとしていた。しかし、時間はもう二人に何の意味も告げてはいなかった。



 朝になって政財界では大黒先生が健康上の理由から入院したという噂が広がっていった。同じ病院に娘も入院したという噂も流れ、何やらキナ臭いものを感じさせたが、それを言葉にするものは誰ひとりいなかった。

「どうだ」
「はい、まだです」
「早いうちに何とかしろ」
「はい、必ず」
 大黒は個室病棟の特別病室にひいた専用の電話を切り、目を閉じた。
 数分後、大黒は目をキッと見開き、そのまま、まばたきひとつしなかった。
 病院の白い壁が不安を急速につのらせてくる。

「殺せ、あいつらを殺せ、殺せェ〜」
 大黒は大声でわめいた。
 秘書兼ボディガードがとびこんでくる。大黒はゆっくりと命じた。
「いいか、陽子と若い男の二人は、なにがあろうと必ず殺せ」
 そう言い終わると、

――幸崎の娘だったのか・・・。
 大黒は心の中で呟いた。
 二年程前から、陽子とはただの秘書という関係ではなくなっていた。
 しかも自分の娘と姉妹のように仲の良い陽子だったので、大黒も隙を見せていた。

 情報操作と暴力と罠によって次から次へと自分の権力を拡大していったその過程を、陽子はすべてではないまでも、ある部分理解していたし、彼自身、陽子が絶対に裏切らないように恐怖で心を縛るつもりで過去の話しを聞かせていた。
 あの日もそんなことを話したはずだ・・・。

「先生はご自身で人を殺されたことはおありですか」
 しなやかな全裸の肢体を惜しげもなくさらしながら、陽子は大黒のブヨブヨとした身体にネコのようにまとわりついて聞いた。
「馬鹿な、わしはひとりも殺したことはない」
「そうよね、先生は力がおありですから、ひと言、命令するだけで済みますものね。でも先生はどうしてそんなに力をお持ちになれたんですか?」
 陽子は大黒の耳元でそう囁いた。

「わしは一代でこの地位を築きあげたんじゃ、生半可な生き方はしとらん」
 大黒は怒ったように言った。
「最初はご自身で悪いことをされていらしたのね・・・いけない人」
 陽子は大黒の唇を求めた。大黒は陽子にむさぼりついた。

 はじめは白かった陽子の肌が、大黒の巧みな唇と指の動きで、徐々にピンクに染まっていく。
 息がはずむ。
 ホステスをしていた頃、ナンバーワンを続けていた先輩がポツンと呟いた言葉が甦ってくる。

――ベットの上じゃ裸の男と女、金も地位も関係ないわよ。要は、どっちがあとをひくかってこと。一度寝たら一年間は通わせなきゃね・・・。
――いいこと、”ベットの中では娼婦になれた”なんて、とんでもない女の思い上がりよ。それなりの男なら、そう思い込んではじめて男は心を許すものなのよ・・・。

 陽子は、この言葉を忠実に守ってきた。大黒に対してももちろんだった。
 本心を奥底に凍らせたまま、陽子の身体が大黒の愛撫に敏感に反応していく。
「お前は全身が性感帯みたいな女だな」
 からかうように大黒が上目使いで言う。その頭を思いきりひきよせながら、陽子は大黒の身体の下にすべり込むと、両足で腰をはさみつけ、迎えいれたいことを身体で知らせた。

 焦らすように、ゆっくり入ってきながら、
「秘密じゃが、証拠もないし昔の話しだから、お前にだけは教えてやろう」
 大黒が言葉で陽子を刺激していく。

「何なの、それ」
 陽子はチャンスと叫ぶ心を悟られないよう、思いきり淫乱になって大黒を求めた。
「先生、素敵、それ、いい!」
「陽子!」
 大黒の動きも激しくなる。

 陽子は二度昇りつめさせられ、放恣にに四肢をゆるめたまま、大声をあげすぎたせいか、少ししゃがれた声で尋ねた。
「先生、先生の秘密、私にだけ聞かせてください。私は先生のものですから」
 陽子は大黒の首に両手を回して、自分の耳元に引き寄せて囁いた。
「先生ご自身で人を殺めたことがおありなの」
「ああ、一度だけな」
「先生、私を殺して、殺して!」

 叫ぶ陽子につられて大黒は甦り、陽子の肩口で荒い息を繰り返していた。
 陽子は下から大黒の耳元にくちづけを繰り返しながら聞いた。
「素敵よ、先生、もっとして!もっと話して!それはいつ頃のことなの?」
 さすがに二度続けては最後まで出来ず、陽子を一度追いつめただけで大黒は陽子から身体を離し、仰向けに倒れながら言った。
「20年程前、首吊り自殺に見せかけた。それがわしの原点じゃ」
 陽子の身体を熱いものが貫いていった。

「大黒がそういったのか」
「うん」
「それで奴を殺したのか」
「死んだかどうか分らない。多分助かっていると思う。撃つ気なんかもうなかった。大黒の黒幕としての力を奪い取ればそれで良かったの。私には理沙ちゃんのお父さんを殺すことは出来ない。・・・だけど大黒が撃ってきて・・・理沙ちゃんが・・・」

 陽子の瞳から再び涙が流れ落ち、いったん溢れ出た涙は止まる気配がなかった。
 淳は静かに言った。さとすように言った。
「理沙ちゃんっていう娘はきっと大丈夫だよ。それに陽子のこと、少しも恨んでいないはずだよ」
 陽子は淳の言葉に、うんうんと子供のように頷くだけだった。
 理沙のことが頭から離れなかった。
 昨年の夏、大黒の別荘に滞在している間は一日中、一緒だった。なんでも話し合えた。
 帰京する前の夜、理沙の部屋を訪ねたときのことが思い出されてくる・・・。

 ナイト・ランプの薄暗い照明の中、ベットの上では理沙が泣きじゃくっていた。
「陽子さん、私どうしても恐くて恐くて、大好きなのに彼と一緒にいるだけで恐いの。大好きなのにこれじゃ嫌われちゃうよ」
 それは理沙の二度目の恋だった。初恋は陽子と知り合う前に終わっていた。
 その話しは何度か聞かされたことがあった。その初恋はもちろん淡い恋ということではなく大人の恋ということだった。二人は年齢が近いせいもあって、そんな話しをよくしていた。もっとも、ほとんどは陽子が聞き役だった。

「理沙ちゃん分るわ、理沙ちゃんの気持ち。前の男性のことを思い出すと恐くなってしまったり、昔のことが甦って臆病になってしまったり、でもそれって誰でも経験することなの。私はだから思うの、傷口をどこに残すかでその人の価値が決まるんだなって」
 陽子は理沙の手を握りながらそう言った。
「傷口をどこに残すかって?」
 理沙は意味がよく分らないと言うように、小首をかしげて聞き返してくる。

「そう・・・何かに挫折したり、誰かに裏切られたり、恋に破れたり、人はみんな多かれ少なかれ、それぞれ辛いことに巡り合うんだよ。きっとそれは初めは大きくて深い傷だと思う。骨まで見えていて血がいっぱい溢れていたりする。でもね、そこに自分自身の負けない気持ちとか意地とか、友情や時間、季節だとか、そういう薬をたっぷりつけて傷口を癒すの。そうするとやがて血は流れなくなってくる。傷口はふさがって最初の痛みは徐々に薄れてくる。感じなくなってくる。いずれ完全に治ってしまうわ。だけどそれが余りに辛いことだったりすると、そうしても傷跡が残ることがあるの」

「傷跡が残るんだ」
 理沙は真剣な顔で陽子を覗き込んでいる。
「そう、それは心に残る傷跡なの。だからその傷跡を心の顔や手に残さないようにするの。そう努力して、そう頑張るのよ
「・・・」
 理沙はよくわからないようだった。

「何かしようとしたとき、傷跡が目に入るとそれを見て傷を受けた時のことが蘇るでしょ、痛みを思い出してしまうでしょ、今の理沙ちゃんは初恋の人の傷が、まだよく見えるところにあるのよ。それが理沙ちゃんを臆病にさせるの。だからって、傷痕はなくせないから、わかりにくいところへ移せばいいのよ。鏡に映して一生懸命見ようと努力しなければいけない、そんなところに傷口を移すの。背中や髪の毛の中とかね」
 陽子は理沙の手を離して鏡に背を向けて肩越しに鏡を見た。

「ほら、こうしなきゃ見えないところに、自分の力で傷跡を動かすの。心に受けた傷は理沙ちゃんの気持ち次第で動くのよ」
「うん」
 理沙はなんとなく頷いた。陽子は理沙を見つめて一緒に頷いた。
「理沙ちゃん、頑張ってね、恋って素晴らしいんだから。いつまでも恐がってちゃ、つまんないよ」



 陽子の側に寄って話しを聞いていた淳は、陽子を見ながら深く頷いていた。
「何か分るような話しだな、俺にぴったりだよ、今の俺に・・・そうだよな、見えないところに傷を移せばまたリングにたてるかな。でも難しそうだな、そいつは・・・」
 陽子は話しをして、大分心が落ち着いてきた。笑いながら淳に言った。
「大丈夫だよ淳なら・・・、何かに夢を託すの。自分を信じて、夢をあきらめないで、それを見つめ続けていくの」

 淳はタバコを取り出し、火を付けた。陽子はそれを無言で見つめていたが、静かに言った。
「それを吸い終わったら、残りのタバコを棄てて。私ももういらないから。だってボクシングするには百害あって一利もないでしょ」
「ああ」
 ひと息、深く吸い込んでフゥーと煙を吐き出すと、淳はまだ長いままのタバコをもみ消し、残りのタバコをワシづかみにした。立ち上がるとゴミ箱の側に歩み寄り、その上で手を広げた。残りのタバコが吸い込まれていった。

「・・・」
 淳は無言のまま陽子を振り返った。陽子も何も言わなかった。二人の間をただ時間だけが流れていった。静寂に佇んでいた二人は身じろぎひとつしなかった。
 まるで時の流れに溶けてしまったようだった。
 陽子は口を開いた。囁くように唇を動かした。

「抱いて・・・」
「・・・・・・」
 淳は黙って陽子を見た。
「復讐のために生きてきた女は嫌?」
 陽子はかすかに小さな声で言った。
「そのためにホステスになった女はだめ?」
「・・・・・・」

「目的のために娘に近づく女は嫌? 父さんの仇の秘書になるような・・・」
 陽子が小さな声でうつむいたまま、そこまで言った時、淳は思いきり強く陽子の身体を抱きしめていた。
「違う、違うんだよ」
 淳はそう言って陽子の唇を激しく求める。そのままベットに倒れ込む。
 淳は陽子の上になって唇を離した。

「自分でさっき言っただろ、心の傷は自分の努力で見えないところに移せるって」
「私の傷は、まだ血も止まっていないの」
 陽子の瞳から、また涙が溢れた。
「陽子、俺がその傷を治して・・・、見えないところに移してやる」
「淳、愛してる」

 淳は何も答えず、そっと陽子のバスローブをはいだ。陽子の小ぶりだが白く美しい乳房が浮かんだ。淡紅色の乳首がツンと起っている尖っている。
 淳は両手でそれを優しく、こわれものでも扱うように包んだ。
 陽子の鼓動が、手のひらを通して伝わってくる。
 ゆっくり撫でていると乳首より硬くなり、手のひらにはっきりと陽子の欲望が伝わってきた。

 静かに唇をはわせる。
「いやッ」
 陽子は淳の顔を抱きしめた。
――もっと乱暴にして・・・。
 というように陽子は淳の頭を抱えた腕に力を加え、息を弾ませる。

 軽く噛む。
 陽子が小さく溜息をついた。
 次に少し強く噛む。
 陽子の溜息が大きくなった。その溜息は欲望を素直にあらわしていた。かすかに汗ばんでいる。

「暑い?」
 淳が尋ねた。
 目をつむったまま、陽子が軽く頷く。シーツをゆっくりはぐと均整のとれた陽子の裸体が横たわっていた。
「きれいだ・・・」
 淳が呟く。
 淡い間接照明に浮かんだ陽子の身体から淳は目が離せなかった。

 細く長いうなじ、甘いカーブを描く鎖骨、さっきより少しボリュームを増した様な乳房からウエストにかけてのラインは思わず抱きしめたくなる。
 小柄な身体に似合わず、ウエストからヒップにかけては圧倒的な量感で迫ってくる。そこだけが陽子の女を主張しているかのようだった。
 そげたように引き締まっている下腹部は淡い繁みに飾られ、かすかに震えているのは恥ずかしさからだろうか、あるいは欲望からだろうか。

「いやだ、そんなに見ちゃ・・・」
 目をつむったまま陽子が甘えた声ですねる。
 慌てて淳はシーツをもう一度引き上げた。

 そのシーツを足で乱暴にずり下した陽子が淳におおいかぶさってくる。男には慣れているはずなのに、心の底から信頼し、愛した男の前では、自分の欲望をどのように表してよいのか分らず、陽子自身、淳にしがみつくことでしか、それを伝えられなかった。

 淳は再びゆっくりと唇を陽子の瞼からはわせはじめた。
 頬、耳、うなじ、そして唇、ひとつひとつに陽子の心も身体も敏感に反応していく。
 いつの間にか、陽子の唇から甘い吐息が洩れはじめていた。
 乳房から脇腹を通って、淳の唇が陽子の繁みに達する。

 唇でそっと繁みをかき分けると鮮やかな紅色の世界が広がっていた。
 そこは淳を待ちかねて豊かな泉と化していた。
 唇をはわせながら、舌をそよがせると、陽子の身体が大きくはずむ。淳がほんの少し太股を押しやっただけで、陽子の身体は大きく開いた。
 再び舌をそよがせると、今度は陽子の方から迎えるように腰をもちあげる。
 いつの間にか、陽子の唇からは小さな鳴咽が洩れ始めていた。

 顔を上げた淳が、そっと陽子の涙を拭って、
「どうしたの?」
 と尋ねる。
 陽子はそのまま淳の胸に泣き崩れ、
「うれしいの・・・、幸福なの・・・、生きててよかったって、そう思ったの・・・」
 とぎれとぎれに、そう言い枕に顔をこすりつけて涙を拭った。

 黙って抱きしめていた淳の腕から陽子がするりと抜けだす。
「淳、目をつぶってて」
 両手で目隠しをしてきた。言われたとおりに淳が目をつぶる。
 陽子の熱い息が下腹部に感じられた。

 まだ柔らかなままの淳のペニスに息がかかる。
 微かな陽子の溜息とともに、淳は温かな柔らかさに包まれるのを感じた。
 ゆっくりとした唇と舌の動きだったが、淳のペニスはたちまち膨れ上がる。稚拙なだけに、それは陽子のより深い愛情を表していた。

 どのくらい時間がたったのだろう。
 陽子は幼女が指をしゃぶるような無邪気さで、淳のペニスに唇をはわせていた。
「おいで、陽子」
 かすれた声で淳が呼ぶ。

 無言のまま寄り添ってきた陽子と見つめ合う。もうふたりに言葉はいらなかった。お互いに何を望んでいるのかが、十分に分っていたからだ。
 陽子の手が淳の腰に回り、引き寄せる。
 淳が入ろうとした時、かすかに陽子が眉をひそめた。
「だいじょうぶ?」
 淳が心配そうに尋ねながら、腰をひき気味にする。
 照れ臭そうにクスッと笑いながら、陽子は

「随分、久し振りだから・・・」
 と言いながら再び淳の腰に手を回し、強く引き寄せながら自らも腰を突き上げるようにして迎える。
「あッ」
 小さな吐息が陽子の唇から洩れた。綺麗な小粒の歯が白く光り、舌が一瞬丸められる。

 淳のゆったりとした動きに陽子の身体はうねり、震え、そして熱い塊が込み上げ始めた。
「ツッ!」
 淳が小さく呻いた。
「どうしたの?」
 今度は陽子が尋ねた。
「うん、なんでもないよ」
 と答えながら、淳は左手だけで身体を支えている。

 陽子が右手を見ると ヒジから二の腕にかけて、何箇所からか血がしたたっている。体重をかけたため傷口がまた開いたらしい。
 無言のまま陽子は淳の動きを押さえ、身体を反転させた。
 陽子の白い身体がいつまでも淳の上で揺れていた。二人は自分たちの運命の中で生きていることを互いの心と身体で確かめ合っていた。僅か数時間の間にお互い、命ギリギリのやり取りの中を生きてきたのだ。それが当然だと思えた。

 愛するということは決して時間ではないことを二人は感じていた。
 淳は陽子のすべてが愛しく思えた。陽子は淳に全てを捧げたいと思った。
 それが自然だった。二人は激しく運命の中で奪いあい、与えあった。
 いつも間にか二人ともまどろんでいた。

 浅い眠りだった。陽子は夢に叩き起こされた。悪夢だった。
 陽子の身体は汗ばんでいた。淳は隣りで泥のように眠り込んでいる。
 陽子はシーツを首まで引き上げ、天井を見上げていた。ほんの一夜の間の出来事だった。

 昨夜大黒の家を飛び出し、淳と出会い、今こうして横になっている。その間の出来事がまるで映画のワンシーン、ワンシーンを短く継ぎ合わせて、しかもそれを倍速再生して見ているかのように陽子の夢に現れた。
 そして目を覚ました今でも、まだ天井の白いスクリーンでそれが駆け回っている。
 陽子はふいに淳にしがみついた。

「あっ」
「どうした どうかしたのか」
 淳は陽子に抱きつかれて目を覚ました。
「嫌な夢でもみたのか」
「うん」
「俺も何度も起きたんだよ」
「・・・・・・」

 陽子は黙って淳の目を見ていた。淳を見ていると不安が溶かされていく気がした。
「心配ないよ。後は警察に連絡して迎えに来てもらうだけだから。さあ起きて出頭の準備しなくちゃな」
 淳は起き上がって時計を見た。少し眠ったような気がしたが、まだ午前11時を少し過ぎたところだった。淳は冷蔵庫に行ってオレンジジュースを取り出した。

「飲むか」
 そう陽子に聞きながらグラスにジュースを注ぎ、一息で飲み干した。半分ほど残ったジュースとグラスをベットの脇に置いた。
「シャワー?」
 陽子の問いかけに、二人の間が濃密に変化したことを示す情感がこもっていた。
「いや、せっかく陽子が包帯巻いてくれたんだから顔だけ洗ってくる。汗はたくさんかいたけど。フフッ」
 少し照れた顔で洗面所に消えた。

「陽子も早く起きろよ、今日は長い一日だぞ」
 洗面所から聞こえた淳のその声に促されて、陽子はベットの上に半身を起こした。ほんの少し溜息をついて陽子は返事をした。
「わかった」
 淳が戻ると、陽子はくいるようにテレビのニュース番組を観ていた。身動きひとつしないで、淳は不思議に思って陽子を見た。

 陽子はその視線を感じて、淳に言った。
「おかしいの」
「何が」
「あんなに あそこで人が死んでいるはずなのに、ひと言もニュースで言わないの」
 陽子は緊張した表情で淳に訴えた。

 淳も少し驚いたが、不安を消すように少し笑いながら陽子に近づいた。両手で陽子の肩を抱き、
「大丈夫だよ。まだ発見されてないだけさ、だってあんなところ、なかなか誰も行かないだろ」
 そう言いながら、陽子以上に大黒の影の世界での実力に舌をまき、不安を覚えていた。



――○×コンツェルンの大黒会長が本日未明自宅で倒れ、緊急入院しました・・・。
 テレビのニュースでそう伝え始めた。
 淳も今度はテレビの画面に釘づけになった。
「おかしいな」
「・・・・・・」
 陽子は何も言わなかった。いや言えなかった。

「もう俺たちの手に負えない。危険だ。ここに警察を呼ぼう」
「・・・・・・」
 陽子も大黒の力を知っていた。震えていた。
 淳が警察に連絡をした。電話を置いて淳は陽子が干してくれていた洋服を集めてベットに置いた。

「着替えて」
「うん」
 陽子は不安だった。早く警察たちにここに来て欲しいと思った。
 淳も何か落ち着かなかったが、陽子に不安を感じさせないように、無理に落ち着いて見せていた。
「大丈夫だよ陽子、もうすぐ警察が来るから、それまでのことさ」

 陽子も着替え終えて、淳の側に歩み寄った。
 隣りに腰をおろすと淳に身体を寄せた。
「大丈夫だよね」
 そう言って目を閉じる。

「淳・・・」
「なんだい?」
「昨日逢ったばかりだけど、本当に淳のことが好きだよ」
「俺も」
 淳は陽子の肩を抱き寄せた。

「行くね、必ず行くからね」
「どこに」
「淳の復帰第一戦のリング」
 淳は深く頷いた。

「ああ、必ずだぞ。そしたら試合の後、リングの上に呼んでやる」
「そんなこと考えてると負けちゃうよ」
「いや、俺は負けない。もう二度と負けないことに決めたんだ。陽子のために、そして俺自身のために」
 淳と陽子は唇を重ねていた。

 コンコンとドアを叩く音がした。
 淳は立ち上がった。
「待って」
 陽子が声をかけた。
「わかってる」
 うなずいた淳はドアに近づき、緊張した声で尋ねる。

「どちらさまですか?」
 低い声が答えた。
「警察の者ですが」
「はい」
 淳はチェーンを残してドアを開けた。男と目が合った。テレビの刑事ドラマのようにおもむろに警察手帳が提示された。

 淳は一度ドアを閉め、チェーンを外して刑事たちを部屋の中へ招き入れた。刑事は6人いた。その後ろに制服警官が2人。
「川奈陽子さんですか」
 二人の刑事が奥に進んだ。淳は二人に続いた。
「うぐっ!」
 背中に強烈な痛みが走り、淳は呻いた。
 ドアはあっという間に閉じられた。
「淳!」

 陽子は何が起きたのか、すぐにわかった。真っ直ぐに淳に向かって走り寄ろうとしたが、男二人に押さえられた。
 淳は背中に突き刺さったものに手を回しながら、後ろを振り返った。
 前から新たに三本のナイフが淳の身体を深々とえぐった。
 淳は大きく後ろに倒れた。

 倒れた淳の顔の上で、男に押さえつけられている陽子が必死に何かを言っている。陽子の顔は涙でグチャグチャだった。
 陽子の涙が淳の頬に落ちた。
「あい・し・て・る」
 淳は動かなくなった。
 陽子は泣き叫んでいた。
 陽子の泣き叫ぶ声がいつまでもその部屋に響いた。
 
 翌日のスポーツ紙の一面には、行方不明だった吉川淳が身元不明の娼婦と思われる女性と心中をしたという記事が踊った。

エピローグ

 数週間後、大黒は帝都大学医学部付属病院から退院した。
 その夜から、大黒邸は政財界からの見舞い客が絶えることなく、黒塗りの車が列をつくっていた。
 二日遅れて、理沙も同じ病院から退院してきたが、そのまま伊豆の別荘へと運ばれた。あの夜以来、大黒親子は顔を合わせていない。もちろん、ひとことも口を利いてもいなかった。

 伊豆・川奈のゴルフ場近くの別荘地は、オフ・シーズンとあって閑散としていた。
 理沙は外出もほとんどせず、たまの散歩以外は付き添いの老女とふたりきりでひっそりと暮らしていたが、ある日、中年男の訪問があってからは、部屋にひきこもって、一歩も外出しなくなった。

 一週間後、中年男が再び訪ねて来た。
 理沙とどんな話し合いがもたれたかはわからない。
 ただ、その夜、中年男の迎えの車にそっと理沙が乗り込んだことだけは確かだった。
 翌日早朝、東京・霞ヶ関の検察庁合同庁舎の前に中年男と理沙は立っていた。

 中年男は倉石進也、淳のジムのオーナーであり、名コンビを組んだセコンドとしても知られていた。
 大黒の配下に追われて、ラブホテルに逃げ込む寸前、陽子の話しを聞いたj淳が、コンビニエンスストアから倉石のジムに宛てて、簡単な事情説明とファイルを宅配便で送ったことが功を奏したのだ。

 東京地検検察庁の警察事務官は、中年男と若い女のふたり連れに、始めはウサン臭そうな視線を投げかけていたが、理沙が自分の身分を明かしてから、急に顔色が変わり、担当検察官へ連絡する。
 東京地検の取調室では、倉石と理沙がファイルを前に数時間に渡って事情聴取を受けていた。
 陽子と淳が生命を失ってまで守り抜いたファイルは、大黒の悪行を正確かつ完璧に証明していた。

 三日後、東京地検は大黒重俊への事情聴取に踏み切り、二日後の取調べの後、逮捕状を請求した。
 この日から数ヶ月間、警察庁を含む官界、衆参両院議員から内閣にまで及ぶ政界、そして日本の基幹産業のトップたちと、政財官界をクロスする、贈収賄、業務上横領、背任などの罪状がマスコミで明らかにされ、日本の支配者層を震え上がらせたのである。

 ただ、この事件の裏に、ふたりの男女の死があったことは誰も知らない。
 ふたりの男女に、豊かな、短い愛の時間があったことも知らない。
 倉石と理沙だけは全てを知り、年に数回、ふたりが葬られた無縁墓地を訪れるという。

 THE END

【第1章 「出会い」】 【第2章 「死闘」】 【第3章 「復讐」】 【第4章 「逆転」&エピローグ】


貴重な時間をさいて最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
最後はハッピーエンドではありませんでしたが・・・
みなさまはどのような感想をお持ちになられましたか?

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