RAIN 〜眠らざる街〜 作・川田 あつ子


第1章  出会い


―いったい俺はどうしちまったんだろう。 どうしてこんなところで腰を降ろしていなくちゃいけないんだろう―
 そんな思いで男は 16の時に止めたはずのタバコをくわえて、両手を迷彩色のハーフコートのポッケトに包み込んでいた。
 ゆったりとしたコ−トだが男の鍛えあげられた肉体は隠せない。タバコを吸い込んだとき、微かな光で横顔が浮かび上がる不精髭とアカにまみれてはいたが、少年の幼さを残したやわらかで整ったシルエットが闇の中でかすかに見える。 
 
 男は一ヶ月、正確には27日と3時間前までは、日本全国の視線を集める27歳になったばかりの若きヒーローであった。
 まばゆいばかりのリングの上に立った男は、自分の名前を他人事のように聞き流していた。
―赤コーナー、阪和ジム所属、117パウンド3分の2 吉川淳……
「ジューン」
 と長く伸ばすリングアナ独特のコールが、淳はWBA世界バンタム級チャンピオンになり三度の防衛戦を全てKOで勝ってきていたというのに どうしても好きになれなかった。呼び方が嫌だったのではない。ただ怖かったのだ。それは、これから拳ひとつで殴りあうという、極めて原始的な、それだからこそ観客はもちろん闘う者さえも魅きつけるボクシングという格闘技の宿命であったのかもしれない。
 
 淳の対戦相手は
「史上最強のバンタム級ボクサー」 
 と称され、デビュー以来22戦21KO勝ちというフィリピン人のWBC世界チャンピオンで軽量級としては極めて珍しいことに欧米から多くの報道陣も詰め掛けていた。
『統一世界バンタム級タイトル戦』
 と大書した看板の文字が暗い場内で浮かび上がっている、試合開始前のセレモニーを淳は覚えていない。 
 そこから記憶がとぎれていた。観客のざわめきワセリンのぬめっとした感触 そして対戦したフィリピン人特有の強い体臭などがかすかに甦る。
 
 試合は一方的だった。
 淳の得意とする左のショートアッパーは完全にブロックされ、右のクロスカウンターは一瞬の見切りで空を切った お返しに強烈なショートフックが淳のレバーに炸裂する。クリンチでもみ合うときのヒジの動きも巧妙だ。なにげなさそうな、ごく自然な動きで首筋、こめかみに鋭いヒジ打ちを打ちこむ。
 
 ガギッ
 ヒジの骨とこめかみの骨が鋭い音を立てる衝撃と鼻の奥に突き抜けるような痛みは心理的に淳を追いつめていく。焦って出るところを的確なジャブで足止めされ、左右の連打を浴びた。
 3ラウンド1分17秒―
 試合開始のゴングを聞いてから7分17秒の間 淳なすすべもなく老巧なフィリピン人チャンプに翻弄され続けサンドバッグのように一方的に叩きのめされた。
 
 プロボクサーになって初めての敗戦だった。
 淳は打ちのめされ腰を落とし、リングに横たわって10カウントを聞いた。
 試合後、コミッション・ドクターの指示で救急車が呼ばれたことを淳は知らない。
 
 気付いたときはベットの上だった。
 翌日深夜 淳は点滴の針を外すとと、そのまま病院から姿を消した。
 TVのワイドショー スポーツ紙はもちろんのこと、一般紙も淳の行方に大きなスペースをさいた。
 しかし 誰も淳の行方をつきとめられなかった。
 
一ヶ月後―
 淳は小さな街にいた。 
 何もない さびれた小さな街だった。

 雨が降っていた。冷たく激しい雨だった。彩色のハーフコートの前ボタンは、ジッパーと共に全て止められていた。
 小さな路地裏の三つほど自動販売機が並んだ古ぼけたタバコ屋の軒下に 微かに雨、風がしのげる程度の隙間があった。
 遠くの黒い雲を追いかけながら、ただ くわえたタバコの煙にまみれて淳はうすく瞳を開いていた 身をかがめるようにしている その姿は誰が見ても かつて 〃蒼き狼〃 と呼ばれ若い女性ファンの熱い視線を浴びながら連勝を重ねて世界チャンピオンにまで上りつめた精悍さのかけらもなく、ただの浮浪者の姿だった
 
 放心状態というのだろうか、まるでもう この世との取引きは全て止めてしまったような人間の表情をしていた。
 もっとも真夜中過ぎで終電もとっくに終わってしまった小さな街には淳の姿を見る人影は皆無ではあるのだが・・・
 何も残らなかった。
 無慙にも徹底的に打ちのめされ敗れてしまった男には金も世間の言う過去の栄光の軌跡も何の意味も持たなかった。
 リングに はいつくばり10カウントを聞いたという事実が、これまでの人生をすべて無意味なものに変えた・・・ そのことだけが頭の中を駆け巡っていた。
 再起を決意するにはあまりにも時間が短く何より敗れたという屈辱に耐えるほどの強さを淳は持っていなかった。
年齢的にも肉体的にも もう駄目だという思いで心の全てが覆い隠されていた。
 初めて聞いた 10カウントとキャンバスの匂いが淳の気力を立ち直れない程に萎えさせ絶望の淵へと追い込んでいたのだ。

 深く大きくタバコの煙を吸い込む。
 疲れ切ってしまった淳の身体に、その一本の中に含まれる微かなニコチンが染み込んでいき全身をしびれさせるような力に変わっていた。
ここに腰を降ろす前に買った 今では珍しい両切りのピースの甘い香りが微かに漂う。
 淳のポッケトの中には 6、7個の喫茶店などのマッチが無造作にほうり込まれていた。 
 ただ雨をみていた。そして少しずつ流れていく雲を視線の片すみで追いかけていた。
 
 目の前のアスファルトの上に出来上がった水溜りの中の街灯の光にボンヤリと病院を出た後の自分の姿が浮かび上がってくる。
 まるで夢遊病者のように、行く当てもなくフラフラと歩いていた 雨に降られても風に吹かれても、もう自分には何の関係もないと思っていた。
 一度 飛び込んだ場末のバ−では人のケンカを買って出たりもした。それは くだらない仕事の上でのトラブルの話だったらしいが、二人の男は言い争ううちにいつしか 金の話になっていた。
 ネクタイを緩めて、ワイシャツの一番上のボタンを外した,、キツネ顔の男が小太りの汗っかきな男につめ寄っていた。

「あの時、確かに俺がお前の分の2万円立て替えただろォー」
「ああ、立て替えてもらった。でも、給料日に俺はお前に返したはずだ」
 
 キツネ顔の男はキッと目を見開いて、小太りの男の胸ぐらをつかんだ
 お互いののしりあう声は段々大きくなって、喧嘩はエスカレートしていった。
 
 淳はカウンターで後ろ向きのまま 男達の大きな声を聞いていたが意味もなく怒りがこみあげてきた。頬に硬いしこりができ 口の中に苦い唾液が溜まってくる。
 ペッとツバを吐きだし、ゆっくり振り返る。男たちの ののしり声はヒステリックに店内に響き渡った。
 無言のまま胸ポケットに右手を突っ込むと、数枚の1万円札をカウンタ−に並べた。
 しわくちゃのお札を両手でゆっくりと広げて、1枚2枚と計5枚あることを確かめた。 
 カウンタ−の中のバ−テンに小さな声で呟いた。

「いくらだい?」
バ−テンは淳がはじめてみせた目の鋭さに、少しひるみながら答えた。
「4270円です。」
「つりはいらないよ」
そう言いながら1万円札を突き出した。
 
 後ろでは さっきの男たちがテーブルをはさんで、まだ口論している。
 まわりには二人を止める客も仲間もいないらしかった。常連なのだろうか、バーテンもそっぽを向いたまま、まだ止めに入ることはなかった。
ただ皆の顔はもういい加減にして欲しい、そんなうんざりした表情が並んでいるように淳には思えた。
 淳は立ち上がりカウンターの4枚の1万円札を手にした。
 
 ゆっくりと男達の席に近づいていくと2万円ずつ喰いちらかされた皿や呑みかけのグラスが並ぶテーブルの上に置き、二人をじっと見つめた。
 キツネ顔の男はキョトンとして淳を見返す。
 小太りの男は今までの勢いのままに淳を睨みつけ体を寄せてきた。酸っぱいような体臭に思わず顔をそむける淳に、男が怒鳴った。
「なんだ、おめえ、こりゃあ 何のつもりだ」
 
 店内が静まり返った。
 その中で シュと空気を裂く音がしたと同時に濡れ雑巾を思いきり床に叩きつけられたようなグシャという音が店内に響いた。
 だれも、何が起きたかわからなかった。何か黒い影のようなものが淳から男たちへ走ったことだけはバーテンに見えたようだ。
 次の瞬間、ふたりの男は失神して床にゆっくりと崩れていた。
 淳の放ったパンチはリズムをとっただけの左のジャブでふたりのテンプルとチンにクリーンヒットしていた。

「一発 1万、いいだろ」
 淳はそう言って、まったく音をなくした店を後にした。
 
 たぶん、その時に突き刺さった、どちらかの男の2本の前歯で出来た左手の拳の傷を手の甲を広げるようにして、くわえタバコでずっと見つめながら淳は

「馬鹿が!」
 と吐きだすように言った。くわえていたタバコが落ちた。ジ−ンズのひざに当って軒下を越えて雨の舗道に転がった。タバコの火はあっという間に消えてしまった。
 淳の視線がそこに移っていったとき、もう ふたりの男のことなど脳裏の片すみにも残っていなかった。

 病院を抜け出てから、まっすぐ自分のアパートに戻って、その次の朝から淳の消息は絶えた。
 無造作に引き出しからワシ掴みで胸ポケットに入れた現金は4、50万はあっただろう。黄昏時になると足を酒場に向け淳はここ数日間、ずっと酒びたりで過ごしていた。睡眠は昼間公園で横になったり、移動のバスや電車の中で取るだけだった。
 何故そんな生活を繰り返しているかを考えようともせず、酒だけを頼りとしていたが、何かから逃げているという感覚だけはあった。
 
 酒場では平々凡々に生きているサラリーマンと同席するのが苦痛だった。
会社に守られて仕事が出来ても出来なくても、成功しても失敗しても給料は保証され安定している奴らよりも日雇いで生活して毎日が勝負と思っている奴らの中で吸う空気の方が淳にはうまく感じられた。
 
 誰と話をする訳でもないのに それが自然だと思っていた。今夜も夜通し当てもなく歩くつもりだったのだが、あまりの激しい雨のせいで十数年振りにタバコを手にして ここの軒先で雨やどりをしていた。
 淳の視線は激しい雨足にすぐ消えて水浸しになり茶色の葉を散乱させているタバコの吸いガラにあてられていた。
 その雨の向うに小さな人影が見えた。淳がここに腰を降ろして初めて見る人影だった。よろめきながら走っているようだった。何かに追われて逃げているようだった。

「俺といっしょだな、あいつ 逃げろ、逃げろ……」
 淳はポツリと呟いた。
 雨は ますます激しくアスファルトに白いしぶきをまき散らしはじめた。


 女が近づいて来た。
 後ろばかり気にしていて淳には気づいていないようだ。息が荒い、数メートル離れたところで立ち止まってヒザに手をつき苦しそうにあえいでいる、よほど長く走ってきたのだろう。
 女のあえぎ声に、つい この前まで日課だった10キロロードワークを終えた後の苦しさが蘇ってくる。酸欠の金魚のように口をパクパクさせて少しでも多くの空気を吸い込みたいのだが、それが出来ない。フル回転していた心臓、筋肉も、疲労の極に達し、ひっくり返ってあえぐしか方法はない。
 
 女は25歳前後だろうか。
 ファッションになんの興味もない、ましてや女の着るものなど気にしたこともない淳が見ても、淡いグレーのパンツスーツは上質のものと一目でわかる。
 身長は155センチぐらいで、今ごろの女としては小柄な方だ。ただ手足が長く顔が小さいため、うす暗い中ではそれほど小さくは見えない。
 後ろばかりを気にしていた女が急に右を向き横の路地を覗きこんだ。雨に濡れたストレートのロングヘアが揺れて横顔がのぞく。
 すっきりと鼻筋が通り、唇は少し薄いが端が上にカーブしていて、いかにも意志が強そうだ。目は大きく見開かれて、黒目がちの瞳が不安そうにゆれている。
 
 急に女の姿が雨の中の闇に浮かんだ。
 淳が、この夜、何本目かのタバコにマッチで火を付けたからだった。
 女の顔が驚愕と恐怖に歪む。
 目は更に大きく見開かれ唇は半ば開けられてはいたが言葉にならない。微かにのぞく舌が震えていた。
 午前2時を回った激しい雨の夜、それも街外れのさびれた自動販売機の陰に人がいるとは思わなかったのだろう。それだけに女の驚きは大きかったようだ。 
 
 一瞬の沈黙がふたりを包む。
 淳は、ゆっくりとタバコを吸いこんだ。視線は女にあてているが物を見るような目つきで、なんの感情もそこにはなかった。
 いや、正確に言うと感情がなかったわけではない。
統一世界バンタム級王座戦に一方的に敗れ、それまで短い人生の中ですべてを賭け、すべてを燃焼させてきた対象を失った人間だけが知る、感情を奪われた無常感といったものが現われていた。
 
 女は、なにも知らない。
 雨の夜の暗がりの中に浮浪者のような男が座りこみ黙って自分を見ている。少なくとも今、追われている連中とは関係なさそうだが味方とはとても思えない。女はそう判断したのだろうか、無言で立ち去っていく。
 怪我でもしているのだろうか、少し左足を引きずるようにしながら小走りに駆けだした。
 途中一度、淳の方を振り向く。小さな街灯の光に照らされた女の姿は妙に心ぼそげだった。

「何やってんだかな……」
 女を目だけで見送りながら、淳が小さく呟いた。
 街灯のある二本目の路地を左に折れて女は消えた。

「何やってんだか……」
 淳はまた、誰に言う訳でもなく、ポツリと声にしてそう呟いた。そして次のタバコを取り出してタバコを真横にくわえ、小さくマッチをすってそれを両手で包んだ。
真横にくわえたタバコを4分の1回転させて火をつけた。
 
「痛い! 離して!」
「うるせえ、このアマ」
 女は消えたはずの路地からストレートの長い髪をつかまれ引きずられるようにして出てきた。体格のいい大きな男は無表情に女の肩と髪をわし掴みにしてマネキンでも運ぶように歩いてくる。
 
 淳の中でなにかが爆ぜた。
 反射的に全身の筋肉が、獲物を狙う狼のように緊張にこわばり解放された瞬間の炸裂に備えている。それはプロボクサーとしての本能ともいえた。
 唇の端が微かに震え噛みしめた奥歯のためか、よく発達した顎の筋肉が浮かび上がった。それまで どんよりとしていた眼が少し細まり同時に鋭さを増す。
 
 淳には まったく関係のない人間であろうが肉体的暴力をふるう現場を見たとき反射的に反応するようになっていたからかもしれない。
 意味もなく、ただ生身の体に拳を打ちこみたい。拳に人間を殴ったときにしか味わえない、鈍いが独特の手応えが欲しい… 淳の本能がそう訴えていた。
 無意識のうちに腰を浮かせかけた。
 軒先からの雨だれが首筋にポツンと落ちてくる。
 爆ぜたときと同じ、いや、もっと早く淳の本能がさめていく。激しい雨の中、出ていくことが面倒だった。

「ついてない女だ。雨さえ降っていなけりゃ助けたかもしれないのに・・・」
 タバコを親指と人差し指でもって、ふたりを見ることもなく煙をはき出しながら呟く。 
 二人は淳の前に近づいてきた。女は四肢の力もゆるみ立っていることすら出来ずにアスファルトの上を引きずられるままだった。

「助けて!離してよ!」
「うるせえ!ここで殺されたいのか」
 そう言いながら男は女の右手を後手に捻り上げながら背中を蹴り飛ばした。女はそり返るようにしてうめいた。

― 殺される このままでは、アレを持っているかぎり殺される・・・
 女は背中がきしむような痛みに耐えながら、不思議に冷静だった。
― ツッ!痛いっ! でもここで殺されるわけにはいかない! なんとか逃げなきゃ だれか助けて!
 そう心の中で悲鳴をあげながらも女はだれも助けてくれるはずがないことを、これまでの人生から骨身にしみてわかっていた。
 それでも烈しい雨の中 いるはずもない「だれか」を求めて女がまわりに視線を走らせる。
 
 赤い小さな光りが見えた。
 その光が一瞬、明るさを増す。光の中に、うつむいている さっきの浮浪者らしい男の姿が浮かぶ。
 だれかわからない。分からないが女は必死に叫びはじめた。
「助けて!」
 短く叫ぶ声を出したと同時に、女の体がアスファルトに叩きつけられる。女の全身の骨がきしみ筋肉は痛みに震える。
 倒れて、あまりの衝撃に声を出すこともできない女に馬乗りになった男が四発続けて スナップのよく効いた平手打ちで女の頬を鳴らす。
 口の中が切れたらしく塩っぽい味が熱く口腔内に広がる。鼻からも出血したらしく呼吸が苦しい。
 横を向いて血を吐き出した女は薄れる意識の中で淳に叫んでいた。

「助けて! あんた、助けてよ!」
「誰だ」
 男は女の視線を追ってふり返った。淳は、うつむいたままタバコを大きく深く吸い込んだ。
「貴様、そんなところで何してる」
 男は女から手を離して淳の方へ二、三歩、歩み寄った。
 
女は はいつくばったまま体をねじるようにして逃げだそうとしているが動くこともできず、ただ荒い息をついているだけだった。
 顔だけこちらに向けて女は懇願するような目で淳を見つめていた。淳は大きく息と煙をはきだして男を見ようともせず

「雨やどりだよ」
 そう言ってタバコを男の足元に投げ棄てた。 
 小さな赤い火が雨でアッという間に消えた。淳の視線はその吸いガラから少し上がって視界ギリギリのところで男の顔をとらえた。
 淳はその視線を少しもはずさないまま、ゆっくりと立ち上がった。
 自分でも思いもよらない言葉が口をついた。
「その女、俺に10万で売ってくれよ」
「なんだ、貴様」
 
 男は近づいてきた。強面のその男は淳よりふた回りほども大きかった。
 何かしら格闘技の心得がある者 特有の ある種の殺気を その身体は発していた。
 男はズブ濡れのパンチパ−マをなで上げながら、ニヤニヤ笑って淳に向かって言った。

「運の悪い男だな。可哀想だが しゃべれなくしてやらあ」
「それもいいけど濡れるのは嫌だからここまで来いよ」
「何を、この野郎!」
 
 男は淳に向かって走り寄ってきた。淳の胸ぐらを掴もうとした瞬間、小さくかがんだ淳のボディブロ−が男の腹に二つめり込んだ。男が前にうめきながら身をかがめた時、シャープな右のアッパーが男の顎を捕らえ、顔だけ不自然な角度で空を向く男の視界は雨雲だけになっていた。
 もっとも淳の右のアッパ−をまともに受けたその男は、地面に背中が着く前に意識はなかったはずだが。
 淳は何もなかったように、またそこに腰を降ろした。今夜 2度目の生きた人間の体にめりこむ拳の感触が、微かな痛みと共に心地良い食後の一服でもするかのように 三本目のタバコを取り出し、また4分の1回転させて火をつけた。
 はき出す煙の向うに赤ん坊のように はいずりながら淳の方へ向かってくる女の姿が見えた。

「早く警察に行け、もう大丈夫だから」
小さな声で女が何か言った。
「・・・・・・」
「なんだって? 濡れちまうから、俺はそこまで行かないよ」
「・・・・・・」
「邪魔だからとっとと、どっかに消えてくれ」
 ハアハア息をさせながら淳の二メ−トル手前位まで女は近づいてきていた。
 そのすぐ脇には白眼をむいて気絶してしまった男が口から血を流して倒れていた 女は男を横目で確かめながら、また少し近づいた。

「逃げな」
 淳は女に向かってもう一度声を掛けた。
「何があったか知らねえが俺には関係のないことだから 悪いけどとっととどこかへ消えてくれよ」
 女はゆっくりとアスファルトの上に座り込み両手を前に伸ばして額を地面につけ大きく肩で息をしていた。くぐもった声が洩れてくる。

「お願い、助けて」
「もう助けた」
「お願い」
「雨が降ってんだよ、動けねえよ」
「お願いだから」
 にじり寄った女は淳のヒザに自分の右手をかけた。淳はそれを振り落とした。
「濡れっから触るな」
「助けてください」
 
 弱々しくそこまで言うと、女はそのまま淳の体に倒れかかり動かなくなってしまった。
 化粧っ気もなく蒼白な顔色をしていたが、かすかに甘い匂いが漂ってきた。夜の女たちにはない男を包み込むような匂いだった。

「参ったな」
 少しも参った顔をみせず、淳はそう言いながらタバコを人差し指ではじいて棄てた。
「参ったな」
 もう一度そう呟いた。淳は今まで自分の座っていた場所を女にあけわたしジャケットのエリを立てると雨の街に小走りで駆け出して行った。
 
 すぐ裏手が露店駐車場だった。明日がゴミの日らしく、ずぼらな主婦たちが駐車場前のゴミ集積場にゴミ袋を山積みしている。
 その中にクリーニング店から返ってきたときに付いている細いハリガネのハンガーがあった。

「しようがねえ、久しぶりだけどやってみっか」
 ハンガーを手にした淳は、それを真っ直ぐにしながら駐車場の中の車を見て歩く。
 どの車もオートマで盗んでも走れないから意味がない。オートマは押しがけができないからだ。
 
 奥の方で やっと一台マニュアル車を見つけた。白い国産の小型セダンでベストセラー・カーだった。
 ちょっと拝借して乗り回すには目立たなくてなによりだ。
 フロントのサイドガラスも、今時 珍しい手巻き式で上部に僅かの隙間があった。持ち主は気が付かなかったのだろう。
 ハンガーのハリガネを曲げて先をフック状にし、ガラス窓の隙間から強引にねじこむ。
 そろそろと下ろしていきながら、ロックレバーにひっかけ、ゆっくり引っ張ってみる。
 一度目は滑ってすぐ外れた。。
 フックの角度を急にして、もう一度、試してみる。
 
 カチッ
 今度はうまくいった。
 ドアを開け、車内に入る。
 さっきまで吸っていたピースの空き箱から銀紙だけを取り出し細くこより状のものをつくった。
 ボンネットを開けバッテリーからきているコードとスターターからのコードを銀紙の手製ヒューズで直結した。
 エンジンは冷えきっていたが、すぐにアイドリングをはじめる。
 エンストしないよう丁寧にクラッチをつなぎながら、淳は女のところに戻った。
 ワイパ−なしでは前が見えなくなるほど雨が激しく降ってきた。


 女が目を覚ました。淳は助手席に座らせていた女に向かって言った。
「どこに行く? 警察か?」
 女は一瞬、自分がどこにいるのかわからないようだった ぼんやりとした顔で淳と車内を見まわすとしゃがれた声で尋ねた。

「どうしたの、この車?」
「盗んだ まあ借りたということだ。後でここに金置いて返しておくさ。で警察でいいのか?」
「私……」
 さえぎるように淳が応えた。
「15分位だよ、気を失ってたのは……」
「あの男は?」
「さっきの店の脇に棄てといた。死ぬこたぁないと思うよ」
「………」
 
 口数の少ない女へ淳はじれて決めつけるように言った。
「警察でいいんだな」
「うん……」
「じゃあ行くか」
 一旦停止してしまったエンジンを始動させるために淳は車を降りて押しがけしはじめる。言われないのに女も降りて、押しはじめた。
 なだらかな下りの坂道までくると、車はゆっくりと走りはじめた。

「早く乗れ!」
 女に小さく叫んだ淳は運転席に飛び込むと器用にクラッチをつなぎエンジンをかける。せきこむようにノッキングした車は、やがてリズミカルな回転音をたてはじめた。
「車も盗んじまったし、俺は警察嫌いだから、おりたら後は自分一人で全部やれよ」
「分かった」
 女は怯えながらも少し 安心したような眼で淳を見て尋ねた。

「誰も来なかった?」
「ああ、何故? まだお前を追いかけている奴でもいるのか?」
「うん、でも大丈夫だったらいい」
「すごい雨だよな」
「うん」
 
 二人はその後はもう押し黙っていた。淳はゆっくりと車を走らせていた。
 小さな街だった。静かな街だった。
 無人の交番の前を通り過ぎたとき、淳は女に言った。

「交番よりも警察署の方がいいんだろ」
「うん」
「名前、なんてんだ」
「……ごめんね、迷惑かけて」
 
 女は質問には答えず助けてくれたお礼だけを呟いた。再び二人は黙ってそれぞれの思いに沈んでいった。
 淳はこの街の人間では無かったので少し迷いながら、やがて警察署らしい無骨な建物を見つけていた。
 雨の中、赤い灯が入口に鈍く光っている。

「おっと 行き過ぎちゃった」
「いいよ、ここで」
 女は微かに顔をほころばせた。はじめて見せた笑顔だった。
「そうか、じゃあ」
 淳は車を止めた。女は降りて淳に向かい少し頭を下げ、道路の反対側にある警察署へ小走りにかけていった 淳は少し先でUターンして車を元の場所へ返しに向かうつもりだった。
 
 そのときバックミラーに女をとり囲むように四方から男たちが歩み寄るのが見えた。
「しまった、どうすっかなぁ、あの女ヤバそうだしなぁ」
 そう思いながらも淳は反射的にギアをローにぶちこみ、Uターンするとアクセルを強く踏みこんでいた。
 タイヤを鳴らしながら走ってくる淳の車に気づいたのか前後で車のヘッドライトに灯がついた。
 男たちは女に向かって走りだした。警察署からも何人かの男が出てくるのが見えた。

「どうなってんだよ、この街は!」
 淳は急ブレーキを掛けながらそう呟き濡れた路面を利用して車をハーフターンさせて男たちと女の間に割りこんで行った。
「早く乗れ!」
 体を左に倒すようにしながら助手席のドアを開けて淳は叫んでいた。
 
 女は追ってくる男たちに気づいていて目だけで淳の車の行方を追っていた。
 止まって欲しい、助けて欲しい、そう願っていた女の目に淳の車のテールランプの輝きが入ってきた。慌てて車の方へ走り寄る。助手席のドアが開かれ淳のその声を聞いた時、夢中で飛び乗り淳にしがみついていく。

「邪魔だ! 離れろ」
 短くそう言って淳は車を急加速させる。女の方に歩み寄っていた男たちは一瞬走ってあとを追おうとしたが すぐにそれぞれの車に向かって散っていた。警察は静かだった。まるで目の前の雨の路上では何事も起っていないように何ひとつ動きは見せていなかった。
 
 時計は午前1時37分を指していた。
 淳はセカンド、サードとめまぐるしくシフトダウン、シフトアップをくり返しながら猛スピードで車を走らせていた。追ってくる車は3台になっていた。
 深夜の街に4台の車がカーチェイスを繰りひろげた。急カーブの先の橋の上で追ってくる一台の車が見通しがきかなかったせいか運悪くすれ違ったトラックと正面衝突をしたらしく、急ブレーキの音に続いて激突する音が聞こえてくる。
 
 そのため、もう一台が仲間を助けているのだろう。追っ手は一台に減っていた。遠くからサイレンの音が聞こえる。パトカーか救急車が出動したようだ 警察から逃げた時、前後の車二台ずつに署内から出て来た別の車と都合5台が淳を追ってきていたのだが2台はふりきり一台は事故、もう一台もいなくなって 今は残った一台だけが淳達を執拗に追跡してきていた。

「畜生、振り切らないことにはどうしようもないな」
「………」
「なあ、お前は一体何者なんだ? 誰なんだ、奴らは?」
 顔をのぞきこむようにしながら問い掛けてくる淳に不安になったのか、助手席の女は質問には答えずに言った。

「後で話すから、ちゃんと前を見て運転して! お願い」
 淳は運転には自信があったが、女は前方を凝視してシートベルトを握りしめていた。
「よし、振り切るからしっかりつかまっていろよ」
 淳は車を大通りめざして走らせた。地理はまったく分からないので、時々ヘッドライトに浮かぶ標識だけが頼りだった。
 運よく二車線の広い道に出た。車の姿は雨のせいもあるのだろう、ほとんど見かけなかった。

 淳は少しスピードを落として追跡の車を引き寄せた。
 瞬間、後部シートのガラスが吹き飛んだ。
 パァーンという乾いた金属性の音は、その後で耳に届いた気がした。
 女が小さな悲鳴をあげた。

「持ってるような気がしてたけど、やっぱり持ってんだな。いったいあんた誰なの?何したの?」
 冷静に言ったはずの淳の声も上ずっていた。拳銃で射たれたとなると顔からさすがに血の気が引くのが分かった。
 淳は本気で逃げようと考えた。今までは車一台なら多くて5人、降りて戦えば十分に勝てる、そう思っていた。ただ武器を持っていたらという不安がぬぐいきれなかった。
 不安は的中していた。それも拳銃という最悪な形で的中していた。しかし不思議にそれほど恐怖心は持続しなかった。リングに上がる前の恐怖心がキャンバスをふんだ瞬間ふっきれるような、そんな奇妙な昂揚感すら淳はおぼえはじめていた。
 
 淳はセカンドにシフト・ダウンしてから、床までアクセルを踏み込んだ。5年落ちぐらいの国産セダンだったがエンジンはよく回り急加速で女はシートに押しつけられる。タコメーターの針が大きく振れてイエローゾ―ンにまで入る寸前、サードに放り込む。
 数百メートルの急発進のあと、淳はハンドルを切りながらハンドブレーキをひき後輪をロックさせて、滑りやすい濡れた道路できれいなスピンターンをみせた。
 そのまま逆走して細い路地を走り抜け、一方通行を逆走したあと街道筋へ飛び出していく、しつこく追っていた車の姿は見えなくなっていた。

「ヒェー こんなに上手くいったの生まれて初めてだよ。でもまだ安心はできないな。」
「運転うまいね、もしかしたら暴走族出身?」
 余裕を取り戻せたのか、軽口をたたく女を振り向きもせず
「馬鹿言ってろ。でもどこかに隠れなきゃな」
 淳はひとり言のようにそう呟き、車のスピードを落として車ごと入れるようなホテルを探し始めた。
 小さな街の中には、なかなかそんな気のきいたところはなかった。ホテルらしき看板を探しながら淳は今夜、何度目かの同じ質問をした。

「お前、本当になんていうんだ。」
「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るものよ」
 女は両手で長いまだ乾ききっていない髪をかき上げながら、そう淳に答えた。
 表情は今までのこわばったそれではなく 少し微笑を含んで声にはからかうような響きすらあった。
 その女の顔を見て淳は、それが癖なのか片手で自分の鼻を引っぱりながら女に向かって答えた。

「そうだな・・・俺は淳。吉川淳、27歳。あとは・・・あとは適当に考えときなよ。」
「あとって何?」
「独身とか、職業とか、年収とかさ」
「そんなことどうでもいいよ。何考えてるの。私をひっかけようとしてるつもり?」
「いや、最近の女って、金のことしか興味がないような気がしてさ」
「そんな女性しか回りにいないなんて、アンタ結構不幸な人生を送って来たんだ」

 淳は少し笑ってから胸ポケットにいれたタバコを探って一本取り出した。またそれを例によって真横にくわえ、4分1回転させて火をつけた。
「変な吸い方、格好良いつもりなの」
「からむなあ それから俺はアンタじゃなくて淳っていうんだよ。なんのために名乗ったんだ。で、お前はなんていうんだい?」
「私はね・・・」

 その時だった。脇道から淳の車の行手をさえぎるように車が出てきて止まった。あやうく衝突しそうになったがダブルクラッチでギアをローに落とし強烈なエンジンブレーキをかける。
 一瞬、タコメーターの針がイエローゾーン深く回り、エンジン音でフロントガラスが震えた。
 ほんの10メートル足らずのところで、停車するのを待ち構えていたように男達が出て来た。手には拳銃らしきものを持っている男が2人いる。

「4人。拳銃2、車の中に2人……逃げるが勝ち」
 そうひとりごちながら淳は車をバックさせた。と後ろにも車が止まるのが見えた。
「しまった。やられるのか…俺たち」
「どうする?」
「死ぬのは嫌だな。一か八かで突っ走るか。しっかり捕まってろよ、ぶっとばすから。行くぞ!」
 
 もう一度、ローにぶちこんだ淳は、そのまま猛スピードで男達に向かっていく。慌てて避けようとした男の一人をはじきとばし停っている車のフロントに 車の鼻先を鋭角になるようにぶつけた。
 一瞬、強烈なショックでシートベルトはしていても全身がシートから飛び跳ねる。
 相手の車をはじきとばして、淳の車は逃げだした。うしろから数発の銃声がとどろいたが男たちも慌てたらしく、弾は遠く外れていた。
 
 フロントガラスは衝突のショックで飛び散っていた。ガラスの小さな破片が、はずみで淳の顔をかすめたのか頬に淡く血がにじんだ。
 淳はもろに風を切り、雨を受けながら走らせた
 後ろからは2台の車が追いかけてくる。

「大丈夫か?」
「今のところ。アンタは?」
「アンタじゃない、淳だ。」
 走っているうちに淳の車はバブルの残骸であろう。造りかけで放り出されたビルの横の行き止まりの道に入ってしまった。
「しまった、行き止まりだ。」
「やるっきゃないね」
 妙に落ちついた声だが、目だけは挑むような光をおびさせて女は淳を見つめてくる。

「簡単に言うな!」
 淳は女のその言葉に大声でそう怒鳴った。
「拳銃持ってんだぞ。10人以上いるんだぞ。だいたいお前のためにどうして俺が命賭けなきゃいけないんだ。なんなんだ、アイツらは」
 女は まだ濡れているパンツスーツのジャケットのボタンを外し、シャツをたくしあげた。
 遠い街灯の薄明かりに女の腹部の白い肌が浮かび、そこに ビニール袋入りのファイルがガムテープで巻きつけられていた。

「これである大物政治家の政治生命が終わるの」
「そんなこと俺の知ったこっちゃない、俺の命が終わっちゃうよ」
「……」
 女は黙って淳を見つめた。
「とにかく逃げなきゃな… 俺さ…世捨て人気どりで自分の命なんかいらないと思ってたけどよ。こんなことになっちまうと生きたくなった。死ぬのはゴメンだな」
 淳はそう言うと車の外に出た。

「早く来い、ぐずぐずしてんじゃねえよ」
 淳は女の手を引いて、造りかけのビルに飛び込んだ。
「名前は?」
 淳は女の手を引きながら、この夜 何度目かの同じ質問をまたくり返していた。なぜ女の名前にそこまでこだわるのか、淳自身にもわからなかったが、どうしても聞いておきたかったのだ。
 返事をしない女に、じれた淳が怒ったように促す。

「お前のだよ!」
「陽子」
 ポツンと女が答えた。
 淳は安心したかのように 少し微笑んで陽子の手を引きながら階段をかけ上がった。
 7階建ての造りかけのビルだった。強く雨に打たれていた。
 男達が乗り棄てられた淳達の車を見つけた。
 午前3時7分、まだ春遠いこの時期、日の出までは時間がある闇の街は冷たい雨に包まれていた。

2章へつづく・・・                                                    

              

【第1章 「出会い」】 【第2章 「死闘」】 【第3章 「復讐」】 【第4章 「逆転」&エピローグ】
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