第3章 復 讐
1
人が降りてくる音がした。陽子は素早く身を隠した。
男は一人で階段を降りるのが怖いのだろう。二段ずつ飛び降りるように猛スピードでかけ抜けて行った。陽子は這うように階段に近づいて行った。上から降りてくる男がいたら
すぐに応戦できるよう拳銃の引き金に指を掛けていた。
だが 弾を撃つことは出来ても数メートル離れたところからでは相手に命中させることは出来ないだろうと思っていた。
階段をゆっくりと上がってゆく陽子の顔と全身は、返り血と緊張の汗で濡れていた。引きちぎられたブラウスのボタンはどこかに吹き飛んでいた。ブラウスは裾の部分で縛られていた。その隙間から呼吸の度に大きく動く陽子の白い胸が暗闇に浮かんでいた。
――あと弾は何発残っているんだろう……
陽子は心の中で自問自答した。拳銃のことなど
まるで知恵のない陽子だった。一歩づつ確実に上の階を目指していた。
随分長く感じられた。雨の音と風の音が、また一段と強くなった気がした。
子供の頃、よく父は陽子をおぶってくれた。あの日、父はどこかで赤い風船を買ってくれた。とても可愛い風船だったのを覚えている。
陽子は父の背中ではしゃいでいた。でもはしゃぎ過ぎて手からスルリと風船の糸が抜けてしまった。風船はあっという間に空高く舞い上がって行った。
陽子はしばらく何があったのか分からず、じっとしていた。やがて
「ふうせん、ふうせん ウァ―ン、ウァ―ン」
陽子は泣き叫んだ。父の背中から降りて、ただ泣きわめき続けた。
赤い風船は夕暮れに吸い込まれてやがて見えなくなった。
「お腹がすいたんだよ」
陽子の父は言った。
意味がよくのみ込めず、陽子は父を見上げながら尋ねた。
「お腹がすいたの?」
「ああ、だからお母さんのところへ帰ったんだ」
「お母さんのところ?」
「そう、ほら、真っ赤な太陽が見えるだろ?」
「うん」
「あれがあの真っ赤な風船クンのお母さんなんだ。だから風船クンは″陽子ちゃん今日一日ありがとう。僕はお腹が空いちゃったから
お母さんのところへ帰るね。陽子ちゃんも気をつけてお父さんと一緒に大好きなお母さんのところへ帰ってね≠サう言ってんだよ」
陽子はその父の話しを聞きながら不思議な心の弾みに戸惑いながら
「お母さんのところへ帰ろッ!」
そう言って父の手を引いた。陽子の父はあふれるほどの微笑で陽子を見つめていた。
「父さん、父さんの笑顔、あの日が最後だったね。忘れないよ」
その翌日、砂場で遊ぶ陽子の前で泣いた父は、陽子と母を残して自殺した。
その後、陽子の生活は一変した。
今、暗闇にその父の笑顔と苦しそうな泣き顔が何度も何度も陽子の目の前で交錯した。
2
「4階の奥から2番目の部屋にいます。許してください……もうやめてください」
淳は泣きながら懇願した。男の執拗な愛撫と巧みな舌の動きに淳のペニスはいつの間にか反応し始めていた。
「早くイキなさい。そしたら身体も心も
もっと楽にしてあげるから」
男はそう言いながら淳の股間に激しく音をたてて吸いついてきた。
溢れる涙だけが、この屈辱を癒す唯一の方法だった。
男の巧みな唇と舌がからみつき、淳の身体の中で何かがは爆ぜた。
淳は子供のように泣いていた。
男が白い液体を唇からしたたらせながら舌でゆっくりなめとり、泣き続ける淳の首にナイフを当てながら顔を近づけて言った。
「俺の言うことを聞いたら、命だけは助けてやろう」
淳はまだ泣き続けていた。男の唇と舌で果てたことが、淳から男としての誇りを根こそぎ奪っていた。それだけに死ぬのは恐かった。
「言うとおりにするか?」
「します……します。殺さないでください」
男はニヤリとしてズボンから自分のペニスを取り出した。そして淳の顔に近づけくわえるように指示した。
「歯を立てたらその瞬間に殺す」
淳は出来なかった。
「許してください 許してください」
淳は子供のように鳴咽した。泣きじゃくった。
階段を昇りきった陽子は屋上へと出る踊り場にひそんでいた。ドアのすき間越しに外をそっと覗いてみた。モーター室の前に男がいるのが見えた。おそらく見張りをしているのだろう。
――淳はきっとあの中にいるんだ。どうしよう……。
陽子のいる踊り場からドアをあけてモーター室の前に行くには、見張りの男の前を横切らなければならない。見つからずに行くことは不可能だった。
陽子は考えた末、自分の女を武器に真正面から行くことにした。
ためらうことなくパンツを脱ぎ捨てる。結んであったブラウスの裾の部分もほどいて、おぼつかない足取りで屋上にゆっくりと歩み出た。
わずかに下腹部を覆うだけのショーツは、陽子に舌を噛みちぎられた男が力まかせに引きずりおろしたせいか、ほつれて今にもずり落ちそうだ。引き裂かれたブラジャーはなく、薄いブラウスごしに乳首がツンと浮かび上がっている。
そんな陽子を見て見張りの男は一瞬、緊張で顔をこわばらせたが、すぐ他の男たちに犯されたものと勘違いしたらしく、立ち上がって下卑た笑いを洩らす。
いくらジャケットで拭ったとはいえ、細い首筋、胸の谷間、下腹部から足にかけて
いくつもの血のあとが残っていた。
いかにもケガをした右腕をかばうように左腕でおさえながら、陽子はよろめくような足取りで一歩、一歩と男に近づいて行く。
男の視線から隠すように身体の後ろ側へ回した右手には拳銃が握りしめられていた。
見張りの男は慎重だった。
欲望に目を光らせながらも不用意に近づこうとはせず、拳銃をゆっくりと抜いて銃口をピタリと陽子の胸に向け、
「動くな そこで止まれ」
と普通の声で言った。怒鳴らないだけに凄みが増す。
それでも陽子は ためらいもせず近づいていった。男の人差し指が引き鉄にかかる。さらに人差し指に力がこめられる。
陽子はゆっくりと膝をついた。引き鉄にかかっていた男の人差し指から力が抜け、陽子の身体に吸いつけられたように近づいて来た。それでも銃口は陽子の胸をさして震えもしない。
「うっ…、うぐっ…」
くぐもった うめき声が陽子の唇から洩れてくる。ブラウスの前は完全にはだけられ、胸がせわしない呼吸と共に震える。
血まみれのその姿は倒錯的な美しさを持っていた。
男の警戒心が微かにゆるんだ。
陽子はその一瞬を見逃さなかった。
拳銃を持つ右腕を男につきだすようにして引き鉄を二回引く。サイレンサーが付いていたため、ドウッという、くぐもった発射音しかしない。
どこの命中したのか わからなかったが、男は後ろに倒れ
そのままモーター室の鉄のドアに後頭部をうちつけていた。
屋上一帯に血と死の臭いが充満したがふり続く雨にゆっくりと洗い流されていった。
3
ドカン!
ドアをたたく音がひとつした。
「どうしたあ?」
陽子の持っていた拳銃にはサイレンサーがついていたため、その拳銃は雨と風と鉄のドアの音にさえぎられた。
「どうしたあ!」
男は淳の口に無理矢理突っ込んでいた三角すい錐のような奇妙な形のペニスを素早く引き抜くと、ズボンにしまいナイフを逆手に持ってドアに張りついた。
淳はなおもむせび泣きながら顔を伏せて懇願した。
「助けてください 助けてください」
なぜ、男が自分から離れたのか理解できないまま同じ言葉を続ける。
男は外の様子をうかがいながら、拳銃を預けてしまったことを悔い、舌打ちをした。
「チッ!まさか女か?」
外は雨音が続いている。
「おい!なにかあったのか!」
男はもう一度、声をかけた。何も返事はなかった。
しびれを切らして男はゆっくりドアを開けた。
少しだけ開いたドアから見張りに立てた男の白目をむいた顔が見えた。
その顔の横に自分の拳銃が転がっていた。
男は意を決してドアを勢いよく開け、拳銃に向けて飛び出した。
拳銃を手にして転がった時、男は背中に熱い衝撃を感じた。それが二度続いた後、男は銃を構えて振り返った。
陽子はさらに2度、引き金を引いた。だが4度目はカチッと乾いた小さな金属音が響いただけだった。
しかし 三発目が男の右胸をとらえていた。銃弾は男の生命を奪うには十分だった。
陽子は銃を投げ捨てると、そのまましゃがみこむ。
緊張のあまり、息も出来ずに拳銃を構え続けていたため、ホッと力が抜けたのか、せわしない呼吸はヒューヒューと湿った空気を震わせた。
しばらく そのままでいてから、ふと気づいたようにモーター室へ飛び込むと、淳が裸で縛りつけられたまま床に横向きで倒れていた。陽子を見ても視線を合わそうとしない。
陽子はすぐに淳の後ろ手に縛られた手を自由にしようとした。
「大丈夫、淳」
「俺、俺、俺……」
淳はまだおびえ怯え、口ごもりながら
それだけ言うのが精一杯だった。
針金で縛られていた淳の手を自由にしてから、陽子はそのまま自分の胸に淳の頭を引き寄せた。
若い健康な男の体臭に包まれて、陽子の中に熱い塊がこみ上げてくる。一度、涙が流れ出すと止めようがなかった。鳴咽しながら陽子は淳の顔をだきしめ続ける。
「ありがとう ありがとう」
泣きながら、ただそう繰り返す陽子の涙が淳の額、頬を濡らす。その涙と柔らかな熱い陽子の素肌の感触に淳は少しづつ自分を、男である自分を取り戻していった。陽子の姿に淳は何があったかを多少想像することが出来た。
――まだあと一人は確実にいる。他にもいるかもしれない……。
そのことが陽子の頭をよぎった。
――全て終わったんだろうか……。
淳もそう考えていた。
それでも抱き合っている二人には互いを確かめ合うことしか出来なかった。
いつの間にか二人の唇は近づき、重なり合った。
淳も陽子もお互いを抱きしめあうことで悪夢のような時間を忘れようとしていた。そのままわずかな時間が流れた後、陽子がゆっくりと力を抜いていった。唇が離れると淳に言った。
「まだ確実に二人はいると思うわ」
淳は陽子から離れて、ジーンズをはきながらうなずいた。
「陽子、大丈夫だったのか」
すこし間を置いて陽子は淳を見上げながら答えた。
「命だけは…」
淳は陽子を優しく見つめ、素直に感謝の言葉を告げていた。
「ありがとう。陽子、助けてくれて」
そう言いながら脱がされていた自分のセーターを陽子の頭からかぶせた。
小柄な陽子にはそのセーターはヒザのすぐ上まで届いた。セーターの裾を少し引っ張りながら陽子はクスッと笑った。
淳はその姿を見て、つい今しがた彼女の胸に抱かれていたときの、心地良い、甘くなつかしい香りを思いだした。
「いい匂いだったよ」
淳はぶっきらぼうに陽子に告げた。陽子は何のことか分からず、不思議そうな顔をして訊ねいた。
「何が?」
淳はドアのところまで近づき外を見渡しながら答えた。
「胸」
「えっ?」
「胸だよ。胸…陽子の。いい匂いだった。」
「バーカ」
「馬鹿とはなんだよ ほめてんのに」
「そうだね 淳も可愛かった」
「どこが?」
「泣き顔」
陽子は淳をからかうように言った。
「ふん」
淳は少し照れ臭そうに鼻をならした。
陽子もつられて、かすかに顔をほころばせたが、すぐ唇を引き締め
「淳、ここにいたら見つかりやすいわ。下に行こうよ」
と、早口で言う。
無言でうなずき、淳が立ち上がったとき、陽子の笑顔が凍りつき、同時に悲鳴が上がった。
生臭い風が右側から吹いた。
考えるより先に淳の身体が反応する。
プロボクサーとしてパンチを食らうことは当たり前だ。いかにガードが巧みでも必ず何発かはヒットされる。
のしあがっていけるボクサーはパンチをもらった時に、ダメージをいかに少なく出来るかを知っていなければならない。
淳は倉石から、このことをウンザリするぐらい聞かされていた。
――いいか、淳、いいパンチが入る寸前にはな、キナ臭いような、生臭いような臭いがするんだ。この臭いがしたときは、やられると思え。ガードなんて、臭いがしてから固めたところで間に合やしねえ。どうするかって?
身体中の筋肉をキュッとひきしめて、できるだけモロに食らわないよう、流してやるさ。少しでも、そうさな、一センチでも二センチでもいいから引いて、直角に当たらないよう身体をひねるんだ……。
倉石の口癖は淳の身体の芯にまで染み込んでいた。
身体を左にひねりながら、右側からのパンチを流そうとする。
だが、ここはリング上ではなかった。
物陰に隠れてチャンスを狙っていた追っ手のひとりの痩せた男は、ナイフ使いが巧みらしく、淳の下腹部をえぐろうとナイフで襲ってきたのだ。低い姿勢から身体ごと突き上げようとしたが、淳が身体をひねったために、右の太股に突き刺さった。
体当たりの衝撃で男と淳はそのまま倒れこんだ。
組み伏せられるような格好となった淳が、下から思いきり左のフックを男の胸に叩き込む。肺を強打され、
「グエッ!」
と、絞め殺されるニワトリのような悲鳴をあげた男は、それでもしぶとく、ナイフから手を離さない。
筋肉に食い込んだナイフは、簡単には抜けない。柄を回すようにして抜かないと、筋繊維がからみつき時間が経つほど抜きにくくなる。
男はナイフ使いのプロだった。
淳のパンチを受けながらも、ナイフをひねるようにして抜くと、今度は淳のノドを切り裂こうとスナップだけで横に払う。
普通の男だったら、ノド笛をかききられていただろう
ところが、淳は生まれつきの動態視力に恵まれていた上に、プロボクサーとしての訓練を受けてきている。
左手の拳で、男の手首を軽くヒットする。軽くヒットとはいってもプロボクサーのそれは強烈な威力だ。
グシャッ
手首の骨が折れたか、ヒビが入ったかしたようなくぐもった音を立て、ひねったような形で歪んだ。
次の瞬間、男は立ち上がり素早く姿勢を立て直して、やや短めのナイフを後ろポケットから抜きだした。
淳もはじかれたように立ち上がった。右太股の刺傷は深く、右足全体が氷水に長くつけられた後のようにしびれて、うまくファイティングポーズをとれない。
男は中腰になり、片手でナイフを操りながらジリジリと追ってくる。
淳は思わず、一、二歩退いた。右足は今の刺傷で感覚がなく、力が入れられない。重心を右足に移すとグラリと身体が傾いてしまう。
「お兄さん、ボクサー崩れだね」
男が、淳に殴られた左胸をさすりながら近づいてくる。
「どうりで、さっきのパンチはよく効いたよ。一瞬、息が詰まるかと思った。」
ムダ話しをしながら油断させて刺す――よくある手だ。よくある手だが、これにひかかる者は少なくない。特に、手傷を負っていたり、弱味を持っていたりすると、分かっていながらもひっかかる。
右足の刺傷がようやく痛みを訴えはじめた。脳天にまで突き抜けるような鋭い痛みだ。
その痛みが淳から冷静さを失わせた。プロボクサーなら、間合いがなにより大切なことくらい、四回戦ボーイでも知っている。パンチが一センチそれようが、十センチそれようが、あたらなければ同じ。だったら、少しでも相手の懐にとびこめ……。
これも倉石からの教えだったが、間合いをとるタイミングを淳は間違えた。
やせたナイフ使いの男のムダ話しにフッと気が抜け、その上、耐えがたい痛みが右の太股からひびいてくる。タイミングをとれというほうが無理な注文だった。
不用意に淳が左足から出て行ったところを、軸足となった右足に男が体当たりしてきた。
「グウッ」
腹の底から搾り出すような悲鳴をあげて、淳は痛みを耐える。男を殴るどころか、呻きながら身体をエビのように折り曲げるのが精一杯だ。
「ふん、けっこうやるかと思ったら、意外に甘いな」
やせた男は酷薄そうな冷笑を浮かべ、ナイフで淳の腹をえぐろうとした。
同時に水の入ったポリ袋を踏み潰したときのような
グシャッ
という音がひびく。
陽子が無表情なまま 古ぼけたシャベルを手にしていた。
顔色は蒼白で、だた目だけが大きく見開かれている。唇の端がヒクッヒクッとケイレンしているのは興奮と怒りからだろう。
やせた男の首筋からは、シャベルの刃で切られた、というより裂かれたらしく血が吹き上がっている。
男の返り血を浴びながら二度、三度と、陽子がスコップを振り下ろす。男の顔はズタズタにされ潰されていった。
「もういいだろ やめとけ」
いつの間にか立ち上がり、右足を引きずるようにして陽子の側に立っていた淳が、スコップをとり上げた。
血と肉と塊と化した男の前で、陽子は呆然と立ち尽くしていた。淳がそっと肩に手を回し抱きしめる。
ウッ、ウウッ
陽子の、腹の底から搾り出すような鳴咽が淳の胸を通して洩れてくる。
なにもなぐさめず、淳はただ黙って陽子を抱きしめ続けていた。
雨はまだ激しかった。二人にとって長い時間だったが、時計の針はそれほど進んでいなかった。午前5時26分 夜明けはまだ遠い。
4
最後に残された追っ手の男は屋上に忍び寄り、階段のドアの窓から淳と陽子の様子をうかがっていた。
淳と陽子はモーター室を出た。
「階段はまるで明かりがないから、まだ少し明るい非常階段から降りよう」
淳はそう陽子に言った。今頃になって、淳の身体中に痛さが甦ってくる。
もう まともには歩けない。かなり出血したせいか、寒気がして足元もおぼつかなくなり、陽子の肩にもたれていた。男はその二人を黙って見つめていた。
「あっ、そうだ」
少し歩いた後、陽子が突然思い出したように言った。
「ねえ、淳、お願いがあるの」
「なに」
「階段のところに私のパンツがあるの。とってきていいかしら」
「大丈夫だよ。そのままで」
「このまま外に出られると思う?」
確かに破れて血まみれのショーツとブラウスでは、いかに車で動くとはいえ、めだちすぎる。
それでも淳は漠然とした不安感から、そんなことより早くここから逃げ出そうと言い募った。しかし陽子には急に女としての羞恥心が湧きあがってきた。
「すぐ戻るから待ってて」
「ちょっと待ちなよ」
淳は慌てて、そう言って陽子を止めた。
「まだ誰か残ってるような気がするんだ」
「そうかもしれないけど……、ごめんね。だって私、女なんだよ。これじゃあ、ちょっと恥ずかしいじゃない」
「わかったよ」
淳は困った顔をしながら陽子の横について歩き始めた。あっという間に二人はズブ濡れになった。
陽子は淳の身体を抱きしめるように支えながら歩いた。
「取ってくるだけだから……」
陽子は淳の首筋に頭を押しつけながら言った。
淳の右手がノブに触れた。ドアを開けようとした瞬間、淳の身体をはじき飛ばすようにドアが中から激しく開かれた。
無警戒だった淳は大きく後ろに飛ばされた。間髪いれず、男が立ちすくむ陽子の腹を蹴り上げた。
陽子は鋭い衝撃とともに全身が引き裂かれるような痛みで呼吸もできず、倒れ込んでそのままうずくまる。
男は大きな声で何かを叫んで、淳にナイフを振り下ろした。淳の両手がそれを必死に防いだが、男の身体は淳よりもふた回りほど大きかった。
男は百キロ近い、全体重を預けてきた。淳は歯を喰いしばった。頬に鋭利な痛みが走った。裸の淳の上半身がプルプルと震えはじめた。さんざんいたぶられた傷口から、また新しい鮮血がほとばしった。
腕や胸の筋肉に血管が膨れあがった。汗が噴出してくる。血が混じっている。淳の腕に預けた男の腕が汗と豪雨に滑った。
男が前のめりに体勢を崩した。淳は飛び起きて男のナイフを蹴り落とした。そこまでは痛みを感じなかったが、次の瞬間、痛めていた右足に激痛が走った。よろめいた拍子に屋上の鉄柵にもたれかかった。
男は落ちたナイフには目もくれず、そのまま淳に体当たりをした。淳はうめいた。男の大きな手が淳のの首筋を渾身の力で締め上げてきた。
淳は身体は半分浮き上がっていた。
――駄目か……。
そんな思いがよぎった。辺りの物音が何も聞こえなくなってくる。
雨が顔を強くたたいている。その雨も感じなくなり始めた。
――駄目か……。
またそう思った。
「死ねぇ!」
男がそう叫びながら淳を屋上から突き落としにかかった。
銃声が響いた。
陽子が両手で銃を構えて立っていた。
男は振り返った。
陽子を見つけて淳の首から手を離した。腰から落ちた淳に強烈な蹴りを三度続けて顔面に叩き込む。
陽子が撃った弾は男をかすめてもいなかった。距離がありすぎた。
「ここだ!ここだ!ここを狙え」
男は大きな声で胸を叩きながらそう言った。陽子は引き金を引いた。男は笑った。弾は雨の闇に消えた。
「ここだ、ここ!」
男は前より大きな声を上げながら、陽子に数歩近づいた。
「それ以上 来ないで。今度こそ当たるわよ」
「撃ってみろ」
陽子は三度続けて引き金を引いた。弾丸はもう残っていなかった。男が歩きかけた時、後ろから呼び止める声を聞いた。
「待てよ まだ終わっちゃいねぇだろ」
淳が構えていた。一ヶ月前の、あの夜の世界戦の中に意識が飛んでいた。
殴りかかったその時、サラテの右ストレートが淳の鼻柱をカウンターになって捕らえた。淳はキャンパスをなめた。沈んだ。それが終わりだった。
だが今夜はコンビネーションブローとなって、男のボディとチンを淳のショートフックが正確に捕らえていた。沈んだのは男の方だった。
淳はその場へへたり込んだ。身体中傷だらけなのだ。流した血だけでもかなりの量になるだろう。気力だけで動いていた。ゆっくりと頭を上げて陽子に言った。
「パンツ取ってこいよ」
硬直状態の陽子はその言葉で我に返った。陽子はパンツを取って淳に近づいた。
「あったよ」
陽子は笑った。無理を承知の我がままを言って、応じてくれた者への照れ臭さを含めた笑いだった。
「チェッ」
淳は陽子の笑顔に勇気づけられ、そして安心した。理由はわからないが、随分重たい過去があるだろうに、明るいいい女だなと思い始めていた。
陽子は淳を抱き起こすと、また非常階段に向かって歩いて行く。
「いったい、いつまで降るんだ、この雨」
「雨、嫌いなんだよね」
「ああ、大嫌いさ、濡れるし傘持つのも面倒だし」
「でも、びしょ濡れだね」
「ああ、シャワーは大好きなのにな」
ウォー!
突然、野獣じみたうなりを上げて、淳の鋭いパンチを浴びて倒れていた男が蘇生し、二人の後ろから襲いかかってきた。
淳は陽子を突き飛ばし男に向かって飛びかかった。
陽子の悲鳴の中、淳と男は2回、3回と重なり合って転がった。二人とも動かなかった。淳が男の下になっていた。数秒間置いて、ゆっくりと男が半身を起こした。
「ああっ」
陽子が小さく声をあげた。と同時に、男は淳の右手側に崩れた。男を押しのけた淳の右手だけが空間に浮かんで見えた。淳が半身になって身体を起こした。
「ナイフ拾っといた、さっき……」
淳が大きく溜息をついた。男の胸にナイフが突き刺さっていた。
陽子は駆け寄って淳を抱きしめた。
「驚かせないでよ! 貴方が殺されたのかと思った」
陽子の手をはづすようにして立ち上がった淳は、血まみれになった手を見つめてポツンと言った。
「チャップリンがさ……」
「えっ?」
突然チャップリンの名前を出されて首をかしげている陽子にかまわず、淳は沈んだ声で話しかける。
「チャップリンがな、一人を殺すと殺人鬼と呼ばれ、百人を殺すと英雄と呼ばれる。そんなことを言って映画の中で戦争を皮肉っていた……俺はこの一晩で何人ころしたんだろう。中途半端じゃ英雄になれない、殺人鬼でもない……」
陽子は淳を見つめた。
「違う、命の恩人だよ 私の」
「でも、殺人者であることは間違いない」
「仕方ないよ。でも貴方は悪くないよ。だってそうしなきゃ、私達が殺されてたもの、だから……ごめんね。私のせいで」
淳は力一杯陽子を抱きしめ、血と汗で少ししょっぱい唇を合わせた。
二人は地上に降りた。ビルの入り口のところで、淳は丸めてあった迷彩色のハーフコートを拾った。それを抱えて、辺りの気を配りながら車の方へ向かった。誰もいなかった。男は確か仲間と連絡を取りに行ったはずだったので心配だったが、まだ到着していないらしかった。
「大丈夫だ、来いよ」
淳は入り口の暗がりに隠れていた陽子を呼んだ。一台目の車はロックされていたが、二台目の車は幸運なことに、ドアもロックされておらず、キーも差し込んだままだった。
「助かった。またぶち壊してエンジンかけなきゃいけないかと思ったよ」
「ツイてるね」
陽子が笑った。淳もつられて笑った。ハーフコートからタバコを取り出して火をつけた。淳はエンジンをかけた。
「淳の笑ってる顔をみると、ずっと前から知っていたような気がする」
「俺もさ」
淳はそう答えて車の中に紫煙を漂わせた。
「私も一本」
「吸うの?」
「色々あったからね」
「色々……、ね」
淳は一本取り出し、陽子に渡した。陽子がそれを口にした時、てのひらで囲いながらマッチをすり、火を近づける。陽子が顔を寄せてきた。
「きれい……、だな……」
「え?何が」
「うん、炎、炎だよ」
淳は火が付いたことを確かめて、マッチを振って火を消した。陽子が深く深く吸った煙を長く細く吐き出した。その瞳から涙が流れるのが見えた。淳は気づかないふりをして車をゆっくり走らせた。
「きれいなの……陽子だよ」
淳は前を見たまま陽子に言った。
「……」
陽子は黙って前を見ていた。フロンとガラスを雨が強く叩いていた。
車の時計は午前6時4分を表示していた。
二人の車が静かすぎる街を走り抜けた。しばらくの間、二人は何も話さず、ただ前ばかり見ていた。
対向車の数が少しずつ増えてきている。小さな街にも夜明けが近づいていた。どうやら尾行車はないようだった。
「どう思う、陽子。警察に直接行くのはまだちょっと危険かな。また奴らに待ち伏せされているかもしれないしな」
「うん、なんとなくこの街の警察じゃ、信用できない気がするの。ほとんどの上層部の人間が大黒に多かれ少なかれ、世話になっているはずだから」
陽子はそう言いながら、血と泥に汚れた自分の身なりを気にしていた。
「私、シャワー、浴びたいな」
「そうか、もう少し走りゃ、車ごと入れるホテルがあるだろ。後のことはそこで考えればいいよ」
そう言って淳はスピードを少しあげた。
陽子は不安そうに後ろを何度も振り返った。
そんな陽子を励ますように淳が笑いながら言う。
「大丈夫だよ、尾行はされてないよ。ただ明るくなる前にホテルに入った方がいい気がしたから。だって俺たちこんな格好だろ。誰かに見られたら必ず怪しまれるからな」
「でも逃げなきゃいけないようなことは何もないよ」
「そりゃそうだけど」
淳はそう言いながら、自分が殺した男たちの顔を一人ひとり思い出していた。また、ほんの
この数時間の内に自分の身に起きた出来事が信じられなく、そして恐くなった。
「とにかくこの街は出よう。何もいいことはなかったから…」
自分に言い聞かせるように呟く淳に、陽子は黙ってうなずいていた。
「そうだ その前にファイルくれ」
淳の言葉に陽子が怪訝な顔をした。
「念のためということだ」
まだ奴らはあきらめちゃいないだろう。この先、どんなことが起きるかわからない。淳は念のため、ファイルを倉石へ送ることにした。
ちょうどすぐ先の道路脇にコンビニエンス・ストアがあり、そこだけ明るい照明を投げかけている。淳は車を停めた。
「どうするの」
と聞く陽子に、淳は言った。
「この世で俺のために、身体をはって動いてくれるのは倉石しかいない。陽子のことを書いた手紙とファイルを彼のところへ送ろうと思う。……万が一のことを考えてだ」
コンビにへ歩いて行く淳の後ろ姿を見ながら、陽子はまた不安に襲われた。陽子もまたさっきの出来事を思い返していた。
「さあ、シャワーでも浴びにいくか」
五分ほどで車に戻った淳が笑顔を向けた。
不安を振り払うように陽子も明るく答えた。
「そうね、これで大黒もおしまいね」
陽子の声は、復讐を果たした喜びより、それに払った代償の大きさに沈んでいた。
第4章へつづく・・・
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