小説CLUB『 Lyrical Essay・我が愛する男たちよ!』
川田あつ子

夏の夜は
 
 家の前を路線バスが暑そうに ちょっぴり疲れた風な音を立てて走り抜けて行く。もう夕刻を過ぎたというのに、まだまだ日射しは高く、蝉の声は益々けたたましくなってきた。子供達は疲れを知らずに、夏の陽を身体中に浴びながらはしゃぎ回っている。そんな喧噪に混ざって遠くの神社から祭りばやしが聞こえ、杜の空を知ってか知らずか鳥達が円を描きながら舞っている。 
 
 少女は、昨日おろしたばかりの赤い鼻緒の小さな下駄を玄関先に揃え、母に浴衣の帯を結んでもらいながら、自分の口元を小さな手鏡に映して、器用に小指の先でそっと紅をさしている。 もう少ししたら、初めて好きな人と祭りばやしの中に二人だけで溶け込んでいけるのだ。ほんの数年前まで父と母に手を引かれて行った夏祭りに…。
 
 でも初めて その身を浴衣に包み片手にうちわを持って、もう片方の手を大好きな人に引かれて、ソロリソロリと鳥居を潜るであろう今年は、今から少女の胸をときめかせる特別な儀式に感じられていた。
 そういえば、いつかの祭りの時、父に
「あとどれくらい一緒に来れるかなぁ?」
 と聞かれたことを思い出した。「ずっと一緒に来るよ」
 
 まだ小学生だった時分、自分がそう答えたことも続けて思い出した。
 その父は今、新聞を広げ、灰皿に吸いかけの煙草を置いて、ナイタ−中継の始まる時間を所在無さ気に待ち続けている。父のそんな後ろ姿を見つめ「ごめんね、お父さん」そんな呟きを少女は胸の中に押し込めた。
 
 普段の少女はその情熱を大好きなバスケットボ−ルに注ぎ込んでいた。幸い都会の醜い部分は まだこの街には届いていなかった。それは姿を変えて存在していたのかもしれないが、少なくとも少女を取り巻く環境の中には今までのところ無かった。物欲、拝金、権力、もちろん言葉としては理解していても、少女の真っ白なキャンバスには、まだ書き込まれてはいない、まるで異次元の考え方だった。そんな類いの言葉を書き込んでしまった人達、しかもそれを打ち消す努力も忘れてしまった人達から見たら、それはただの奇麗事、理想、夢物語、儚い言葉遊び、そんな言葉で片づけられてしまうのだろう。少女と彼女の周りの人達はそれをまだ感性で受け止めることが出来た。
 
 もちろん ずっと守り続けることが出来るのか、それをはっきりと言明することは誰にも叶わぬことではあったが…。
 抱えきれない程の愛情と優しさに包まれている少女は、自分を姿見の中に映し出して初めて主役の舞台を迎えた女優のように緊張し、ときめいて自分の出番を待っていた。少し微笑んで映る自分自身が微かに揺れているのが分かった。
 
 開け放された窓辺で母が飾った風鈴が涼し気な音色で少女に語りかけてきた。玄関から呼び鈴が聞こえた。
 少女は跳ね上がるように立ち上がり、肩までおろした髪を心地良さそうに揺らした。
 
 父は横目で嬉しそうな少女の笑顔をとらえ、娘の喜びを分かちながらも少し寂し気に小さく微笑んで「楽しんで来いよ」そう声を掛けた。
 若者らしく挨拶をした、凛々しげな少年に手を引かれて着馴れない浴衣と履き馴れない下駄で、不安そうに歩く少女が母に見送られて祭りばやしの聞こえてくる道に少しづつ溶け込んで行った。
 
 夏の夜は あまい・夢
 
 一九九五、異常な出来事に日本中が揺れた。異常な天災と人災…。一九九六、許せない出来事に日本中が驚き泣かされている。住専、HIV、そして天災の後始末…。何ひとつ心が、優しさが感じられない。考えると怒りで心が歪むから、そういう時は美しい物を見て、触れて感じていたいと思う。花に水をやり、語り掛ける。二人の猫が戯れる姿に優しさを確かめる。暑い夏の一日は時々そんな風に過ごさないと私自身がおかしくになってしまう。
 
 夕立が恋しいな…。夕立の後の匂いが、洗い流された後の何とも言えない街の匂いが大好き。少しセンチになった後、頑張らなきゃって不思議にそう思えるから…。


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