小説CLUB『 Lyrical Essay・我が愛する男たちよ!』
川田あつ子

彼奴 (アイツ)


 雑踏の中を男が足早に歩いて来た。街の喧噪から少しでも逃れる為なのか、普通よりも長めに深く掘られた薄暗い小さな階段を男は駆け降りる。階下には古びた木製の扉の飲み屋があった。男は重そうにその扉を開いた。
 
 店の中は雑然としていて、まるで場末の壊れかけた飲み屋の様であった。地上の喧噪とはまるでに異次元の世界といった趣である。常連客以外にはけっして立ち寄ることはないと思えた。 カウンタ−に身なりの整った男が一人、姿勢を正して座っていた。その男は扉の方に視線を移すと小気味よく立ち上がり、無言で扉の男を迎え入れた。

「マスタ−おはよう」
 男はそう店主に声を掛け、自分を迎えてくれた先客の隣に腰掛け水割りを注文した。先客は、男が何杯か水割りを飲み干すあいだ、自分は何も口に運ばず、ただずっと男に語り掛けていた。

「もう忘れてくれ。そう親父には伝えてくれないか」
 男は静かにそう言って飲み干した何杯目かのグラスをカウンタ−に置いた。
「坊ちゃま、ではどうしてもお家には戻って頂けないとそういうことでございますか」
 
 身なりの整った男は、そう言 て男の横顔を凝視した。
「このままで良いのでございますか。本当に」
「お前にはすまないが俺はそれでいい。彼奴も俺の家柄など何も知りはしないからな。」
 
 男はそう言って空になったグラスをマスタ−に振って見せた。「坊ちゃまは何故、さようなまでにあのお方を……相続権を放棄して、旦那様のお怒りに触れられてまでも、あの様に身分の低い貧しい女性を、しかも異国の異宗教の女性を、そのようなまでに愛し続けることがお出来になさるのですか」
 
 身なりの整った男はまるで理解に苦しむ様子で棚に並んだ洋酒の隙間にその視線の先を留めた。
暫くの沈黙の後、男は新しいグラスを口に運びながら話はじめた。

「俺が彼女を愛し続けられることに大した理由も努力も何も無いさ。あるとしたらそれは、ただ俺自身の問題、俺の心の問題なんだよ。三つの条件があるんだが俺の心がいつもその三つの条件に満たされているかどうか、それだけなんだ。それはな、俺の心が、俺が彼奴を愛していると感じているかどうか、彼奴が俺を愛していると、俺の心が感じているかどうか、そして俺が彼奴を愛していると彼奴が感じてくれている、そう俺の心が感じているかどうか、と言うこと。
 
つまり全て俺の心の問題なんだ、それ以外に何も無い。何もね。きっとそれは世界中の誰にだって言えることだと思う。この三つの条件は初めから備わっているものじゃなくて、いつかある日その存在に気づくものだから、だから人を愛することって自然なんだ。感性だから。心の動きだから。それは生き物だから。涙であり、笑顔であり、けっして計算であってはならないから。

だから例え肌の色が違っても、宗教が違っても、愛し続けること、愛し合い続けること、それ自体は簡単に起こり得ることなんだ。三つの条件さえ感じることが出来ればね。だって目的は金でもSEXでも無い訳だから、ただ彼奴が良くて、いつも一緒で在りたい、そう願うだけだから、身も心も。

そして身体は常に心に従いついて来るものだから。お前はきっと、〃それはきれいごとだ〃そう感じるのかもしれないが、でもそれが事実で、真実のことなんだ。彼奴が俺と同じ気持ちである必要も無い、もちろんそうであれば、尚一層力強さは増す訳だけど、例えそうではなくても、俺が彼奴を愛し続けられることに大した理由も無ければ、さしたる努力も必要としないんだ。

又、口にするが三つの条件さえ感じることが出来たらね、そしてそれは俺自身の心の問題だから、誰のせいでも無いんだよ。金も権力も家柄も次の世界には持っていけない。持っていくことが出来るとしたら、それは思い出、それだけじゃないのかな、そういうことだよ。」
 
 男が話終わって、二人は押し黙ってただ空をみつめていた。
古びた飲み屋のカウンタ−の上に煙草の煙りがゆったりと昇っていた。